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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『優しきフランス』

訳詞への思いタイトル
 アンスティチュ・フランセ関西(旧日仏学館 在京都)でフランス語を学び始めてから、もう随分歳月が経ちました。
 現在受講しているのは週一回のクラスですが、取り上げるテーマが多岐に渡っていて、今は、新聞や雑誌などの記事を用いながら、時事問題を中心に幅広く生のフランス事情を紐解いてゆく大変興味深い授業を受けています。
日仏学館1
 通学で使ういつものバスの運転手さん、降車客に必ず、「このあともお気をつけて、素敵な火曜日をお過ごしください。」と声を掛けて下さるのです。
 気負いもなく、さりとて機械的でもなく、ソフトで自然な口調で爽やか。
 この言葉を聞くのがいつの間にか火曜日の愉しみになっています。
日仏学館2
 さて先週の授業では、「今回は、往年のシャンソンを取り上げてみましょう」ということでシャルル・トレネ(Charles Trenet)の『優しきフランス(Douce France)』という曲を教材に選んで下さいました。
 作品の背景や解釈等学んでいくうちに、トレネのこの曲に改めて感ずるところがあり、試みに訳詞を作ってみました。

 前置きが長くなりましたが、今日は「訳詞への思い」、この『優しきフランス』をご紹介したいと思います。

    『優しきフランス』
                      訳詞への思い<29>     

   Douce France
 Douceは「甘い・心地よい・穏やかな・柔らかい・優しい」などの意味。
 トレネジャケット
 1943年、シャルル・トレネ(Charles Trenet)作詞、レオ・ショーリアック(Léo Chauriac)作曲。
 第二次大戦後の動乱期にトレネ自身が歌って、フランスで大ヒットした曲である。この曲のヒットはこの時代の歴史的背景・世情に密接に結びついていると思われる。


   <この曲にまつわるトレネのプロフィール>
  1940年6月13日、ヒットラーの率いるナチス・ドイツがパリに入城。
  ニースに居たトレネは除隊し、パリに戻ることを決意。
  1941年アヴニュー劇場のステージに立つ。
  第二次世界大戦下の1943年にこの曲の制作。 同年、同劇場にて発表。
  戦後1947年録音され、爆発的ヒットとなる。


 手負いの祖国に向けた愛・誇りが、真っ直ぐに伝わってくるこの曲は、今も不朽の名曲としてフランス人に愛され、深く浸透している。
 曲構成は、クープレ(Couplets)とルフラン(Refrains)でしっかりと組み立てられていて、典型的シャンソンの形態を持っているといえよう。
 「クープレ」というのは、いわばセリフ部分のこと。物語の展開を時系列で語るように歌い進めてゆく。
 一方、「ルフラン」は、旋律を重んじ、情感豊かなサビをメロディックに歌い上げる部分で、印象付けるべく何度も反復されるのが常である。

 『Douce France』の冒頭は、幼少期の愉しかった思い出を物語るクープレから始まる。

   Il revient à ma mémoire  Des souvenirs familiers
   Je revois ma blouse noire   Lorsque j´étais écolier
   Sur le chemin de l´école    Je chantais à pleine voix
   Des romances sans paroles  Vieilles chansons d´autrefois

   慣れ親しんだ思い出の数々が記憶によみがえる
   黒い上着が目に浮かぶ
   小学生だった時 学校の道すがら
   歌詞のない恋歌 昔ながらの古いシャンソンを
   声を出して歌った 


 クープレはセリフを語るように言葉を音に入れ込むことが出来るので、比較的対訳に近い内容・言葉数で綴ることが可能なわけだが、試みに私が作った訳詞は下記のようである。

   小さな手 つないで 黒い上っ張り 着て
   学校への道 朝陽が眩しくて 
   ありったけの声で  ありったけの歌を
   意味も分からず   口ずさむ 恋のメロディー 
                          (訳詞 松峰)


 「黒い上っ張り」・・・園児が着るお揃いのスモック、フランスでは今も存在しているだろうか。
 日本でも時々黄色などのお揃いの上っ張りを着て、若い先生に引率されながら公園で園児たちが遊んでいるのを目にすることがある。制服の自由化は幼稚園にも波及するだろうから、こういう光景も段々減ってくるのかもしれないが。
 余談だが、カトリックの女子校で過ごした私の中・高時代には校内で着用するまさに黒い上っ張りがあって「タブリエ」と呼んでいた。 「タブリエ」はフランス語で割烹着のことだ。

 そして、ルフランへと続く。
   Douce France  Cher pays de mon enfance
   Bercée de tendre insouciance  Je t´ai gardée dans mon cœur!
   Mon village au clocher aux maisons sages
   Où les enfants de mon âge  Ont partagé mon bonheur
   Oui je t´aime  Et je te donne ce poème
   Oui je t´aime  Dans la joie ou la douleur
   車窓からのフランス

   心地よいフランスよ
  幼年時代の優しい安穏にはぐくまれた国
  私は君を心にとどめ続けることにした
  鐘楼とつつましい家々のある僕の村
  そこで私と同じ年頃の子供たちが 幸せを分かち合った
  そう 私は君を愛す  そしてこの詩を君に捧げる
  そう 私は君を愛す  楽しいときも苦しいときも
                        (注 君=フランス)
  

 音韻に留意しながら作ったこの部分の私の訳詞は下記である。
   Douce France   幼い日 mon enfance
   優しさに包まれ   時は流れてた  
   Mon village    鐘の音 響き渡り
   小さな灯りともる  穏やかな夕暮れ
   Oui je t´aime  いつだって心に   
   Oui je t´aime   輝き続ける  (訳詞 松峰)

   フランス農村風景
 クープレとルフランが組み合わさった風格のあるメロディーの中でトレネが伝えたものは、まさに祖国への愛。
 戦時下劣勢にあった自国の中で、敢えて「フランス万歳」「大好きな我が国」と明るく揺るぎなく歌い上げて、絶望感に苛まれていた戦火の民衆に、そしてレジスタンス運動の闘士たちに熱狂的な力と光を与えた一曲となったのだろう。

   『ふるさと』への思い
   兎 追いし かの山 小鮒 釣りし かの川
   夢は 今も巡りて 忘れがたき ふるさと


 幼少期の美しい思い出に彩られた「ふるさと」への憧憬はフランスに限るわけではなく、民族を越えた共通した感情なのだと思う。
 けれど、我が国の唱歌『ふるさと』の締めくくりは、

   こころざしを果たして いつの日にか帰らん 
   山は青きふるさと 水は清きふるさと 


 であり、包み込んでくれる慈愛に満ちた自然への愛、畏敬にどこまでも優しく帰結してゆく。

 奇しくも『douce France』の発表と同時期の1945年~1946年に、日本で歌われた戦後歌謡、空前のヒット曲となった『リンゴの唄』には、<日本が一番>というようなダイレクトな言葉はなく、可憐なリンゴの実を慈しみ、仄かな恋心のイメージを重ねるロマンチックな歌詞に、日本の再興を託していて、美しく穏やかな世界を志向するしなやかな情感を感じる。

 『douce France』がこれほどのヒット曲であったのに、日本においてさほど注目を集めなかったのは、この曲が、シャンソンの国フランスの、一歩も退かない矜持のような独特なパワーを醸し出していたためだったのかもしれない。

 最近のシャンソンの中から<ふるさと>の取り上げ方に注目したい曲が何曲かある。次の機会にこれに続けて紹介してみたいと思っている。
                             
                                  Fin


    (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
    取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

    では、シャルル・トレネジュリエット・グレコの歌うそれぞれの原曲をお楽しみください。



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