
「切り開くのはきみたちだ。」
一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。
学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。
「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)
今から100年以上前の話である。
南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
と、きのうまでは思っていた。
という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。
「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。
3月に勉強するはずだったものは?
生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
切り開くのは、きみたちだ。
この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。
「パパラギにはひまがない」
さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。

ウィキペディアの説明によると、
1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。
日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。

「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。
ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。

その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。
パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。
パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。
だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。
おお、愛する兄弟よ。
私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。
私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
だれも時間に不満をもったことなどない。
一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。
3月はどんな月になるのでしょう。
健康に留意してお過ごしくださいね。
一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。
学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。
「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)
今から100年以上前の話である。
南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
と、きのうまでは思っていた。
という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。
「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。
3月に勉強するはずだったものは?
生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
切り開くのは、きみたちだ。
この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。
「パパラギにはひまがない」
さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。

ウィキペディアの説明によると、
1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。
日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。

「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。
ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。

その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。
パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。
パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。
だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。
おお、愛する兄弟よ。
私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。
私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
だれも時間に不満をもったことなどない。
一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。
3月はどんな月になるのでしょう。
健康に留意してお過ごしくださいね。


