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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

桜花爛漫 そして悉皆

   桜花爛漫 ざわめき昇る炎

  名残の桜。
桜1 柳
  いつもの散歩道、白川沿いは柳が早緑色に柔らかく揺れていました。

辰巳明神
  辰巳大明神の粋な風情。

桜2



そして季節を謳歌する花々。
咲き誇り絢爛と舞い散る木の下には、坂口安吾や梶井基次郎の言うところの物狂いの壮絶さや妖気さえもが宿る気がしてきます。
桜はやはり格別な花木であるとしみじみ思います。

 古い書類を整理していたら、桜について綴った文章や記事などをまとめたファイルが出てきました。
 聴
 読売新聞1997年3月30日の『絵は風景』のページ。
 20年以上前の新聞なので、紙面はすっかり黄ばんでいますが、近藤弘明氏の絵画『聴』を取りあげ、当時読売新聞の編集委員だった芥川喜好氏が「桜花爛漫 ざわめき昇る炎」と題して解説しています。

 薄紅色に染まる空間を吹きあれるものがある。
 桜花爛漫の枝が騒ぎ、幹がうねる。野から立つ炎がざわめき昇る。
 枝も幹も左回りに強く渦を巻いて幹の腹のあたりに真空を生み出している。
 吹きあれ花を散らすものの正体は何か。風、と答えればいいのか。
 だがどうもここは様子が違う。外から風の吹き込んでくる気配がない。
 この桜花満開の下は外気が遮られた別種の空間だ。そこに花の発する妖気のようなものが充満している。
 むしろ霊気といおう。そう呼ぶほかない強い放射能が、渦となりすべてを巻き込んで自律運動を続けている。そんな風景に見える。
     ・・・・中略・・・・
 宗教的といわれ、いま地上的な透明感を増しつつある彼の世界を貫く、一つの感覚がある。一羽の蝶の内に身をひそめ、絵から絵へ、浄土から現実へと飛び歩く往来自在の霊的な浮遊感だ。この『聴』では、舞い散る花弁の一枚に作者の意識はある。

 古い新聞に載っている色褪せたこの一枚の絵画に心を奪われる気がしました。
 芥川氏の卓見と美しい文章にも深く惹かれ頷くばかりなのですが、桜の広がりの真下に立って桜の内に入り桜の放つ妖気・霊気に  全身全霊を揺さぶられる・・・そんな酩酊感を感じました。
 近藤弘明氏の生家は天台宗の寺社で、自らも6歳で得度し仏門にあったことからも、独自の宗教的香りに包まれているように思います。
 昔読んだ本の中の彼のこんな言葉が不意に思い起こされました。

  実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。

 含蓄がありますね。
 絵画に限らずあらゆる芸術・学問にあてはまる真理なのではないかと私には思われます。

   悉皆(しっかい)さんに連れられて
 「悉皆」は「しっかい」と読みます。
 「一つ残らずことごとく」という意味ですが、着物の世界では、着物に関する相談を全て受けてくれる、言ってみれば、着物総合プロデューサーの意味で使われています。
 京都の街を歩いていると、所々で、この「悉皆」という文字を目にすることがあり、「洗い張り・染替え・誂染・お仕立て直し、着物のご相談何でも承ります」というような添え書があって、大体イメージできていたのですが、先日、ご縁があって、京友禅の工房を悉皆さんのご案内で見学するという機会を得ることができました。
 私の友人に東京の銀座で呉服屋さんを営んでいる女性がいて、彼女は誰でもが思わず振り返ってしまうような着物美人なのですが、数日前お花見に京都来訪。
 着物をいつも素敵に着こなすもう一人の友人と共に、京友禅の卸問屋さんを訪ねました。で、そこで悉皆さんを紹介して頂き、京友禅について様々学ぶことになったのでした。
 
 私は着物の事には疎く、着る機会もほとんどないのですが、昔ながらの伝統の技を脈々と守り続けて、多くの職人さんたちがそれぞれの役割を担いながら、長い時間をかけて一枚の着物を作り上げてゆく、悉皆さんが熱く語る京友禅のその工程と情熱に圧倒されました。
 
 「悉皆業」とは、一般的には次のような役割を担うのがごく普通であるようです。
 「長い間着ていた着物がくたびれてきたので、洗いに出したい」、「若い頃着ていた着物が派手になったので染め替えたい」、「どうしてもしみが落ちないけれど、気に入った着物なのでどうにか着る方法はないものか」などという着る人の話に耳を傾け、どのような変化を望んでいるのかを聞き出すのも悉皆業の大切な仕事になります。

 卸問屋さんや呉服屋さんは自分のセンスやお店の嗜好とぴったりする、相性のよい悉皆さんとタッグを組んでいて、生涯相棒のように寄り添い、切磋琢磨し合ってこれぞという着物を生み出してゆくのだと話されていました。
 悉皆さんは、そういう発注者の希望を実現して一枚の着物を完成するために、様々な職人さんたちを手配し、それぞれに出来上がりのイメージを伝えていくプロデューサーの役割を持っているのだということが良くわかりました。

 たとえば発注者が孔雀の絵柄の着物を注文したとき、孔雀と一口に言ってもデザインは様々あるわけで、まず構想を練ってイメージを明らかにしてゆきます。
 その発注者のイメージを具体的につかみ、好みを尊重しつつ、更に出来上がった時、最も美しくしっくりと着てもらえるように、どのような色合いと図柄が一番しっくりくるのか、まずは下絵師さんに具体的に提案するところからスタートするのだそうです。

 下絵師さんの工房に連れて行って頂きました。
 まさに孔雀の発注を前にして白生地にデッサンをしていらしたところでした。
 足元に積み上げられた鳥類の図鑑・東西の画家たちの多数の画集・・・・動物園などに足を運び、孔雀を観察することはもちろん、陶器や洋食器などの絵付け、絵巻物などに至るまでかなり研究して独自の発想を得る手掛かりにすると語っておいででした。

 下絵を初めとして、京友禅の制作過程は標準的には19の工程を取るのだそうです。
 この日、何人かの職人さんの工房にお伺いし興味深いお話をゆっくりとお伺いすることができましたが、でも、すべての工程をお訪ねするにはかなりな日数を要しそうです。 
工房2
 工房では写真撮影が憚られて、ほとんどシャッターを切ることができなかったのですが、唯一撮らせていただいたこの写真は、印金加工と言われる金箔や金粉を描かれた絵に添って接着加工する金彩(きんさい)という作業をなさっているところです。

 この後刺繍を施す工程が待っているそうですが、刺繍の職人さんがどこに刺繍を入れてくるかを類推しながら、それを邪魔しないように生かすように金を配置しているとおっしゃっていました。


    工房1
 金彩は金彩、刺繍は刺繍、それぞれ別の職人さんが、ごく一部分を請け負っているのに、それぞれが一枚の着物という宇宙を見て生きている、そんな風に感じ、こうして培われてきた日本文化の奥深さ、伝統の力を心底実感したひとときでした。
 時間や労力やお金がかかる伝統が急速に廃れていく時代ではありますが、捨ててはいけないものがあることをしみじみと思います。

 冒頭でご紹介した近藤弘明氏の言葉

 実の花、空想の華、いずれにしても、存在感は同一である。 現実の花は現実以上に空想的であり、空想の華は空想以上に現実的でなければならない。
 
 この言葉の精神を友禅職人さんたちの中にも見た気がしています。




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