
重要伝統的建造物群保存地区ということ
大和まほろばを辿りたくてガイドブックを眺めていたら、「江戸時代に栄えた豪商の町、今井町」が目に留まりました。
『古事記』『日本書紀』にも記されている古社寺、古墳群に囲まれた日本最古の道「山の辺の道」の風情こそが、私にとっての奈良、大和の原風景そのもの。
懐古的気分の中で、この神々の道を静かに歩くことが、これまでの自分の奈良の醍醐味だった気がします。
「江戸時代の繁栄を伝える町・今井町」という言葉は、そのようなイメージからは随分かけ離れているのですが、それで反対に興味を惹かれたのかもしれません。
近鉄奈良駅から電車で約40分、近鉄八木西口駅で下車、「蘇武橋」と記された赤い橋を渡ると今井町の街並みが目に前に広がりました。
今井町の成立は、天文年間(1532〜1555)に寺内町(寺を中心とした町)が建設されたことにはじまります。町の周囲に濠をめぐらせ、要塞化して織田信長に抵抗。その後、信長から自治権を認められ、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えました。現在も多くの民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。当時の地元の建材を用い、職人の緻密な技術を施して建てられた家々は、土地の風土や自然、歴史を色濃く反映しており、民家建築の貴重な財産だといえます。
どのような歴史もやがては次の時代の中で自然淘汰され、新たな時の流れの中に埋没していくものなのでしょう。
まして歴史的建造物等は、その時代の雰囲気・匂いをも愛おしみながら後世に伝え残すという強い思いを、その土地に生きる人々と行政とが一体となって、よほどしっかりと持たない限りは、たとえ保存されたとしても、ただ過去のモニュメントとして、取って付けたものになってしまう危険がある気がします。
でも、実際にはとても難しい。
どのような土地も、まぎれもなく現在を生きているのですから、保存される歴史的建造物・町並みに隣接して、コンビニやマンションがあったとしても仕方のないことです。究極的には「歴史を生き生きと感じ楽しみながら、豊かに共存する」文化を、その土地が、日本という国が、どう育んでいるかが問われるのかもしれません。
少し大げさかもしれませんが、そんなことを想いながら、色々な町並みを再発見するのってとても素敵なことのように感じます。
豪商の町並み
まずは町の観光協会に向かいました。
『今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)』と名付けられたこの建物、今井町の歴史を詳細に伝える資料館として公開され、威風堂々とした佇まいを見せていました。1903年(明治36年)に教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されてきたそうです。
見た途端、奈良ホテル(1909年に創業された辰野金吾の設計による関西屈指のホテル)と似ていると思いました。
受付の若い女性は物腰がとても柔らかくて、わかりやすく今井町の概要を教えて下さったのですが、町への誇りのようなものが溢れていて、第一印象は上々です。
今井町が現在のように町ぐるみで保存に取り組んだのはそれほど古くはなく、平成4年頃からだという事です。普通の住居でも、老朽化が進み改築を余儀なくされる場合、外壁の仕様・色合い・高さ・等の制限、町並み全体が統一感を持って、昔ながらの意匠である大きなひさしを設けることなど、町全体で景観を作っていくという取り組みが現在に至るまで生きていると聞きました。
今井町の町並みです。
昔にタイムスリップしたようなこのような街並みは、多くの場合、観光地として、お土産物屋さんや食べ物屋さんが立ち並んだりしてにぎわうものですが、そういうお店も見当たらず、そして観光客の姿もほとんどなく、かといってさびれた感じは全くなく、穏やかに清廉に町の人たちが日々の生活を営んでいることにまず感銘を受けました。

玄関先に打ち水、紫陽花の花、多くの家の前にこのように花々が飾られています。
看板もなかなか。
床屋さん、本屋さん、薬屋さん・・・普通に営業しています。

軒先のあちこちにこんな燕の巣も見られました。のどかな囀り。

寺内町である今井町の中心は、重要文化財にも指定されている称念寺です。 室町末期に一向宗本願寺の僧侶、今井兵部が建てた布教道場が始まりで、今井町はこの寺の寺内町として発展したのだと聞きました。

明治10年には明治天皇が投宿した折、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
称念寺もまた、幾星霜を経て静謐な佇まいを見せていました。
今井町は、福岡・博多や大阪・堺と同様に、住民である豪商や町民が自治権を握る自治都市として、江戸時代にかけて大いに栄えた町。豪商たちの屋敷も当時の面影をそのままに大切に保存されています。

河合家住宅。江戸初期から現在に至るまで変わらず酒造業を営んでいます。
軒先には杉玉が端然と吊るされ、歴史を負った造り酒屋の風格を誇っているようでした。
旧米谷家住宅。金物や肥料を扱っていた豪商の家。広い土間には当時のままのかまどや煙返しが残っていました。

裏庭の土蔵の前には蔵前座敷。錠前がいかめしくかかった蔵を守るべく目を光らせ座していたのでしょうか。

豊田家住宅。材木商を営み、藩の蔵元も務めていた豪商です。
向かい側の豊田記念館の庭には樹齢250年というカイズカイブキの大木が。豪商であっても商人の家には松を植えることは許されなかった時代に松に見立てて丹精した木が今やこのような大木に育って時代を証明していると、現当主が語って下さいました。代々の当主の書画・骨董・古美術など貴重なコレクションの数々も公開中です。
そして、今西家住宅。予約していなかったため見学はできませんでしたが、惣年寄筆頭として町の自治権を担った名家。
藤村の『夜明け前』ではありませんが、歴史の中の繁栄と衰退の渦にこの町も巻かれてきたのでしょう。
今、令和の時代の中で、この風土と調和しながら歴史の記憶を大切に、穏やかな営みを続けている・・伝統の保存という事の意味を考えた小さな奈良探訪でした。
大和まほろばを辿りたくてガイドブックを眺めていたら、「江戸時代に栄えた豪商の町、今井町」が目に留まりました。
『古事記』『日本書紀』にも記されている古社寺、古墳群に囲まれた日本最古の道「山の辺の道」の風情こそが、私にとっての奈良、大和の原風景そのもの。

「江戸時代の繁栄を伝える町・今井町」という言葉は、そのようなイメージからは随分かけ離れているのですが、それで反対に興味を惹かれたのかもしれません。
近鉄奈良駅から電車で約40分、近鉄八木西口駅で下車、「蘇武橋」と記された赤い橋を渡ると今井町の街並みが目に前に広がりました。
今井町の成立は、天文年間(1532〜1555)に寺内町(寺を中心とした町)が建設されたことにはじまります。町の周囲に濠をめぐらせ、要塞化して織田信長に抵抗。その後、信長から自治権を認められ、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えました。現在も多くの民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。当時の地元の建材を用い、職人の緻密な技術を施して建てられた家々は、土地の風土や自然、歴史を色濃く反映しており、民家建築の貴重な財産だといえます。
どのような歴史もやがては次の時代の中で自然淘汰され、新たな時の流れの中に埋没していくものなのでしょう。
まして歴史的建造物等は、その時代の雰囲気・匂いをも愛おしみながら後世に伝え残すという強い思いを、その土地に生きる人々と行政とが一体となって、よほどしっかりと持たない限りは、たとえ保存されたとしても、ただ過去のモニュメントとして、取って付けたものになってしまう危険がある気がします。
でも、実際にはとても難しい。
どのような土地も、まぎれもなく現在を生きているのですから、保存される歴史的建造物・町並みに隣接して、コンビニやマンションがあったとしても仕方のないことです。究極的には「歴史を生き生きと感じ楽しみながら、豊かに共存する」文化を、その土地が、日本という国が、どう育んでいるかが問われるのかもしれません。
少し大げさかもしれませんが、そんなことを想いながら、色々な町並みを再発見するのってとても素敵なことのように感じます。
豪商の町並み
まずは町の観光協会に向かいました。

見た途端、奈良ホテル(1909年に創業された辰野金吾の設計による関西屈指のホテル)と似ていると思いました。
受付の若い女性は物腰がとても柔らかくて、わかりやすく今井町の概要を教えて下さったのですが、町への誇りのようなものが溢れていて、第一印象は上々です。
今井町が現在のように町ぐるみで保存に取り組んだのはそれほど古くはなく、平成4年頃からだという事です。普通の住居でも、老朽化が進み改築を余儀なくされる場合、外壁の仕様・色合い・高さ・等の制限、町並み全体が統一感を持って、昔ながらの意匠である大きなひさしを設けることなど、町全体で景観を作っていくという取り組みが現在に至るまで生きていると聞きました。

今井町の町並みです。
昔にタイムスリップしたようなこのような街並みは、多くの場合、観光地として、お土産物屋さんや食べ物屋さんが立ち並んだりしてにぎわうものですが、そういうお店も見当たらず、そして観光客の姿もほとんどなく、かといってさびれた感じは全くなく、穏やかに清廉に町の人たちが日々の生活を営んでいることにまず感銘を受けました。

玄関先に打ち水、紫陽花の花、多くの家の前にこのように花々が飾られています。
看板もなかなか。
床屋さん、本屋さん、薬屋さん・・・普通に営業しています。


軒先のあちこちにこんな燕の巣も見られました。のどかな囀り。


寺内町である今井町の中心は、重要文化財にも指定されている称念寺です。 室町末期に一向宗本願寺の僧侶、今井兵部が建てた布教道場が始まりで、今井町はこの寺の寺内町として発展したのだと聞きました。


明治10年には明治天皇が投宿した折、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
称念寺もまた、幾星霜を経て静謐な佇まいを見せていました。
今井町は、福岡・博多や大阪・堺と同様に、住民である豪商や町民が自治権を握る自治都市として、江戸時代にかけて大いに栄えた町。豪商たちの屋敷も当時の面影をそのままに大切に保存されています。

河合家住宅。江戸初期から現在に至るまで変わらず酒造業を営んでいます。
軒先には杉玉が端然と吊るされ、歴史を負った造り酒屋の風格を誇っているようでした。
旧米谷家住宅。金物や肥料を扱っていた豪商の家。広い土間には当時のままのかまどや煙返しが残っていました。


裏庭の土蔵の前には蔵前座敷。錠前がいかめしくかかった蔵を守るべく目を光らせ座していたのでしょうか。

豊田家住宅。材木商を営み、藩の蔵元も務めていた豪商です。
向かい側の豊田記念館の庭には樹齢250年というカイズカイブキの大木が。豪商であっても商人の家には松を植えることは許されなかった時代に松に見立てて丹精した木が今やこのような大木に育って時代を証明していると、現当主が語って下さいました。代々の当主の書画・骨董・古美術など貴重なコレクションの数々も公開中です。
そして、今西家住宅。予約していなかったため見学はできませんでしたが、惣年寄筆頭として町の自治権を担った名家。
藤村の『夜明け前』ではありませんが、歴史の中の繁栄と衰退の渦にこの町も巻かれてきたのでしょう。
今、令和の時代の中で、この風土と調和しながら歴史の記憶を大切に、穏やかな営みを続けている・・伝統の保存という事の意味を考えた小さな奈良探訪でした。


