

今年は落ち着かない状況ですので、夏休みの海外への旅行客も、例年より少なそうですが、シャンソンに歌われているパリジャン、パリジェンヌの夏は、快適とは言い難い気候のパリを脱出して、南の方向にバカンスに出かける、それを王道としているようです。
シャルル・アズナブールの「八月のパリ」など、この辺の事情を踏まえた曲はシャンソンにはたくさんあるのですが、今回はセルジュ・ゲンズブールの「太陽の真下で」という少し風変わりな曲をご紹介してみようかと思います。
久しぶりの<訳詞への思い>です。
「太陽の真下で」
訳詞への思い<5>
1967年のセルジュ・ゲンズブール作詞作曲による作品で、原題は“sous le soleil exactement”(まさに太陽のすぐ下)。
テレビのミュージカル・コメディー「アンナ」の中でアンナ・カリーナによって歌われた曲であるが、その後、ゲンズブール自身も歌っている。
冒頭の原詩、及び直訳は次のようである。
Un point précis sous le tropique
Du Capricorne ou du Cancer
Depuis j'ai oublié lequel
Sous le soleil exactement
Pas à côté, pas n'importe où
Sous le soleil, sous le soleil
Exactement juste en dessous.
<回帰線の真下 南回帰線か北回帰線か
あれからどちらかは忘れたけれど
太陽のすぐ下 その近くでも どこかでもなく まさに太陽の真下>
1番を記してみたが、どこか捉えどころなく、これが最後の4番まで行ってもあまり代わり映えはせず、曲全体に茫洋とした雰囲気が漂っている。
Sous le soleil exactement
Pas à côté, pas n'importe où
Sous le soleil, sous le soleil
Exactement juste en dessous.
<太陽のすぐ下 その近くでも どこかでもなく まさに太陽の真下>
リフレインされているこの部分が、妙に耳に染みついてきて、聴いているこちらのほうが、頭がグルグルになってくる気がする。
更にこんな言葉が続いてゆく。
<どこかの海のほとりだったことは確かだけれど,もうどこの国だったかも
忘れてしまった 夢だった気がするけど,もしかしたら本当のことだったかもしれない>
・・・・ともかく太陽の真下だったのだとそればかりが強調される。
何だか記憶喪失か,健忘症か,酔っ払いの戯言みたいな寝ぼけた原詩なのだけれど,繰り返されるsous le soleil(太陽の下) sous le soleil exactment (太陽の真下)という言葉が,畳み掛けるリズムとぴったりはまって,頭に強烈に刷り込まれてくる。
「太陽の真下で」と題した私の訳詞は、次のように始まる。
地球の 真ん中
回帰線の すぐ下
太陽の 真下で
気になって、・・・どうしても思い出したくて、・・・思い出せそうなのに何も思い出せない・・・・けれど、・・・でもそれは確かにあった出来事。
体はとても鋭敏に何かを覚えているから神経が緊張していく。・・・
そういう感覚が、この原詩の奇妙な魅力である。
まさにそういう感覚そのものを、訳詞の中で表してみたかった。
回帰線の真ん中に立つ時の気分。
太陽は寸分違わず自分の頭上に真っ直ぐにあり、自分は地球のど真ん中に突然スポットライトで照らされたように立ち尽くしている。
人が自分の過去を回顧するときに感じるそんな心象風景を、訳詞で伝えてみたいと思った。
そして最後の4番の原詩と直訳。
C'est sûrement un rêve érotique
Que je me fais les yeux ouverts
Et pourtant si c'était réel ?

理性的ではなく直感的・動物的感触という意味合いで<エロティック>という言葉を使ったのかもしれないが、かなり意味深でもあり、ここに至るとこれまでの曖昧さが、何となく氷解・・・・私は、「太陽の下での過ぎ去った恋」の存在と、その喪失感とを強く感じてしまったので、訳詞の中にもそれを敢えて反映させてみることとした。
それにしても、誰でもこの詩に描かれた雰囲気は何となく思い当たるのではないだろうか。
普通に過ごしているときに不意に「これと全く同じ場面を見たことがある」とか「この場所に居合わせた気がする」とか感じたり,五感に訴えかけてくる匂い・音・光などが「ずっと前から知っていた」もののような気がしてひきつけられたり・・・・そういう感覚にもどこか似ている気がする。
déjà-vu (デジャヴュ・既視感)・・・という言葉が日本語化して割と普通に使われているがこれに近いのかもしれない。
そしてこの曲の場合はそれがまさに「太陽」そのものなのだろう。
「太陽」が肌に伝わる熱と、眩しい光が,直接記憶の底の思い出を呼び覚ましてしまう・・・・・
「太陽が眩しかったから」人を殺してしまった、カミュの小説『異邦人』の主人公ムルソーが見つめた太陽を思い出した。
映画化された画像の中でも(いつかずっと前に古い映画を見たことがあったが)当然のように,スクリーンにはみ出しそうにぎらぎら照りつける太陽を映し出していた。
・・・話が脱線してしまうが、『異邦人』は1942年刊であり、当時、「不条理の哲学」などと呼ばれ、虚無的で人間性を逸脱したかのような病める若者像が世の中を震撼させ、強烈な反響を生んだ作品だったわけだが、今や、犯罪者、犯罪者予備軍、あるいはもしかしたら全く普通の生活者の中にさえ、現実が遊離して感じられるようなムルソー的感覚は存在しそうで、このカミュの名作はまさに現代を予見していたのだと感じられてくる。
ゲンズブールもまた,太陽と太陽が落とす影とをじっと見つめながら写真のシャッターを何枚も切るように,この詩を綴っている気がする。
でもこちらは深刻な顔は見せず,彼独特な、癖のあるニヒルなダンディズムに巧みに包み込んで、お洒落で軽快なリズムに乗せて・・・。
Fin
(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願いします。)」
今回は、ちょっと危ない謎多き人物、ゲンズブールについては敢えて触れませんでした。書き出すとはまり込んでしまいそうでしたので。・・・・・気合いを入れ直したら、また改めてご紹介してみたいと思います。


