
一月もあっという間に後半、今年も月日の経つのが早そうです。
今朝起きてみたら外は一面の雪化粧、京都も底冷えの冬との戦いが始まっています。
コンサート『変わりゆくものへ』の準備を本格的に進めているのですが、このチラシをご覧になった方から既に様々な感想が届いていて、それぞれの受け止め方にとても興味を惹かれます。
「昭和、平成、令和と過ごしたこれまでを振り返ってみると、まさに時代も自分も大きく変わっていて『変わりゆくもの』を改めて自分の生きてきた道程に思いました」と年配の知人からの言葉。
私自身もまた「変わりゆくもの」を、何気ない日常や周囲に感じ続ける毎日です。今日はそんな日々の中でふと心が留まったことをいくつか。
<爛熟の薔薇>
気がつくと今朝、テーブルに飾った白薔薇がこんなに大きく開いていました。絢爛と咲き切る矜持をことさら誇示しているかのようにも見えて、薔薇は誇り高い花と改めて感じます。

ふと年上の友人が昔言った言葉を思い出しました。
「蕾が膨らんできた頃の薔薇が好きと言う人が多いけど、自分は、満開になり今まさに散ろうとするぎりぎりの薔薇の凄みが美しいと思う」
彼女自身が、この言葉の似合うエキゾチックで妖艶な魅力のあるマダムでした。果敢にドラマチックな半生を過ごし老齢に達した その時も、自身の中に生きる情熱と何かに挑む力を失わない、爛熟の美を漂わせている人であったように思います。
つるんと滑らかで瑞々しい幼児の肌は、人生を経るにしたがって皺が刻まれ、それは心の奥にまで届き・・・人が生きるという事は良くも悪しくもそういうことなのでしょうけれど、精一杯生き切ったその姿そのものが美しい存在感をもって全てを圧倒する、それでこそあっ晴れなのではと・・・飛躍しすぎかもしれませんが、今朝の白薔薇にそんなことを思いました。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
原題は The Curious Case of Benjamin Button)、2008年のアメリカ映画、1922年に書かれたF.スコット・フィッシュジェラルドの短編小説をもとに製作されています。先日BSで放映されていたのを観て心に残りました。
80歳の状態で誕生し、年を取るごとに若返る運命の元に生まれたベンジャミン・バトンの一生を描いたファンタジー。荒唐無稽な物語なのですが、見ているうちにちょっと不思議な気がしてきました。

彼の名は、ベンジャミン・バトン。80歳で生まれ、若返っていった男。20世紀から21世紀にかけて、変わりゆく世界を旅した男。どれだけ心を通わせても、どれほど深く愛しても、出逢った人々と、同じ歳月を共に生きることができない、その運命。―それでも、人生は素晴らしい―
というキャッチコピーです。
簡単にあらすじを言いますと。
ニューオリンズの病院で、老女デイジーが最期を迎えようとしているところから映画は始まります。娘に、日記帳を読んで聞かせてくれるように頼みますが、その日記帳はベンジャミン・バトンの手記であり、日記の内容はベンジャミンの誕生の経緯に遡ります。
第一次世界大戦が終わった日。生まれたばかりの赤ん坊が老人施設の前に捨てられていました。赤ん坊は、皺だらけの顔、80歳の老人として生を受けていたのです。施設経営者の妻クイニーという心優しい女性に、神様からの授かり物として愛情深く育てられることとなります。命拾いをしたものの、この赤ん坊は老衰寸前のような状態であり、決して長く生きていけないだろうと医者に告げられるのですが、奇跡的に施設の中で育ってゆきます。クイニーは赤ん坊にベンジャミンと名づけます。
ベンジャミンは車椅子の生活から、杖を使って歩けるようになり、年を追うごとに若い容姿になってゆきます。その頃、彼はデイジーという6歳の可愛い女の子に出逢います。ベンジャミンは彼女に、自分は老人ではなく、本当は子供なのだと告げるのです。
やがて月日は流れベンジャミン17歳、身体も段々と若々しくたくましくなってゆき、施設を出て広い世界を知りたいと、船員になることを決意します。
一方、デイジーはバレエ学校に入学してバレエダンサーへの夢を追いかけ、共に励まし合います。

数年が過ぎ、二人はそれぞれの紆余曲折を経て、ついに思いを交わし合い結婚することになります。奇しくもちょうど二人の年齢が同じになる交差点でもあったのですが、この頃の最も幸せな美しい時代のベンジャミンをブラッド・ピットが演じています。爽やかな好青年ぶりで、ベンジャミン、おめでとう!と思わず祝福したくなりました。
娘・キャロラインも誕生するのですが、彼は、年を追うごとに若くなっていく自分がいつまで父親でいられるのかという不安に次第にさいなまれることになります。デイジーより既に若くなっている自分が、そのうち娘より子供になってしまう、そんな思いから彼は何も告げずに姿を消します。
更に色々展開があり、月日が過ぎて老女になったデイジーに、身元不明の少年がデイジーの住所を持っていたと電話が入ります。
彼女は男の子を引き取り育て、ついには彼は赤ん坊になって、彼女の腕の中で死を迎えるのでした。
デイジーをじっと見つめ、そして静かに目を閉じ永遠の眠りにつく小さな彼と、彼を胸に抱きながら、そっと呟くデイジーの次のような言葉でこの映画は結ばれます。
時と共に彼はすべてを忘れていった 自分の事を忘れ、歩き方や話し方や食べ方までも 彼は最後に私の事を思い出した それからゆっくり目を閉じた
眠るように
赤ん坊に戻って死ぬという事は、人間の最も自然な最期なのかもしれないと思いました。
何の力もない赤ん坊として世に生を享け、やがて、全く無力の状態で命を全うしてゆく・・・それが人の自然な姿そのものなのかもしれません。
若返ってゆくことが必ずしも幸せなわけではなく、限りある時間を共に生きる人とともに歩み続けて、共に人生を終えてゆくことの意味を改めて考えます。
そして、この映画で心がほっとしたのは、まずはクイニーという黒人の女性、ベンジャミンの育ての母の限りない慈愛と、やがて伴侶となる恋人デイジーの純粋さと、施設の老人たちの屈託のない明るさでした。
ベンジャミンを奇異な目で見ることもなく、「老人として生まれてくる、そんな不思議なことだって人生には起こりうる、神様はそれ全てに平等に祝福を与えている」とごく自然に考えて、家族として、仲間として、恋人として当たり前に温かく受け入れるその優しさです。
老いるという事
最近友人と話すと、ご両親とか、近い身内の方とかのご病気の話が頻繁に出てくるようになりました。特に認知機能の衰えへの対応にそれぞれが苦慮していて、その介護の方法や、対応についてなど情報交換なども交わされます。
現在、私の身近にも差し迫った問題が色々生じ始めています。
頭ははっきりしているのに、身体だけが衰え、それを直視せざる得なくなった時の当事者の気持ちの持ち方は千差万別です。あるがままを受け入れ、嘆かず、その状況の中での時間を愉しもうとしている方を見ると救われる気がしますが、でも実際自分の事となるとなかなか難しくて、とても強い精神力が必要とされるのでしょう。
そんなことを思うにつけ、先ほどのベンジャミンの映画のラストがことさらに感慨深く感じられます。
自分のことを忘れ、言葉を忘れ、歩くこともできなくなり、食べ物も固形の物から液体の物にと・・・そしてデイジーの腕の中で・・・
今朝起きてみたら外は一面の雪化粧、京都も底冷えの冬との戦いが始まっています。
コンサート『変わりゆくものへ』の準備を本格的に進めているのですが、このチラシをご覧になった方から既に様々な感想が届いていて、それぞれの受け止め方にとても興味を惹かれます。
「昭和、平成、令和と過ごしたこれまでを振り返ってみると、まさに時代も自分も大きく変わっていて『変わりゆくもの』を改めて自分の生きてきた道程に思いました」と年配の知人からの言葉。
私自身もまた「変わりゆくもの」を、何気ない日常や周囲に感じ続ける毎日です。今日はそんな日々の中でふと心が留まったことをいくつか。
<爛熟の薔薇>
気がつくと今朝、テーブルに飾った白薔薇がこんなに大きく開いていました。絢爛と咲き切る矜持をことさら誇示しているかのようにも見えて、薔薇は誇り高い花と改めて感じます。

ふと年上の友人が昔言った言葉を思い出しました。
「蕾が膨らんできた頃の薔薇が好きと言う人が多いけど、自分は、満開になり今まさに散ろうとするぎりぎりの薔薇の凄みが美しいと思う」
彼女自身が、この言葉の似合うエキゾチックで妖艶な魅力のあるマダムでした。果敢にドラマチックな半生を過ごし老齢に達した その時も、自身の中に生きる情熱と何かに挑む力を失わない、爛熟の美を漂わせている人であったように思います。
つるんと滑らかで瑞々しい幼児の肌は、人生を経るにしたがって皺が刻まれ、それは心の奥にまで届き・・・人が生きるという事は良くも悪しくもそういうことなのでしょうけれど、精一杯生き切ったその姿そのものが美しい存在感をもって全てを圧倒する、それでこそあっ晴れなのではと・・・飛躍しすぎかもしれませんが、今朝の白薔薇にそんなことを思いました。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
原題は The Curious Case of Benjamin Button)、2008年のアメリカ映画、1922年に書かれたF.スコット・フィッシュジェラルドの短編小説をもとに製作されています。先日BSで放映されていたのを観て心に残りました。
80歳の状態で誕生し、年を取るごとに若返る運命の元に生まれたベンジャミン・バトンの一生を描いたファンタジー。荒唐無稽な物語なのですが、見ているうちにちょっと不思議な気がしてきました。

彼の名は、ベンジャミン・バトン。80歳で生まれ、若返っていった男。20世紀から21世紀にかけて、変わりゆく世界を旅した男。どれだけ心を通わせても、どれほど深く愛しても、出逢った人々と、同じ歳月を共に生きることができない、その運命。―それでも、人生は素晴らしい―
というキャッチコピーです。
簡単にあらすじを言いますと。
ニューオリンズの病院で、老女デイジーが最期を迎えようとしているところから映画は始まります。娘に、日記帳を読んで聞かせてくれるように頼みますが、その日記帳はベンジャミン・バトンの手記であり、日記の内容はベンジャミンの誕生の経緯に遡ります。
第一次世界大戦が終わった日。生まれたばかりの赤ん坊が老人施設の前に捨てられていました。赤ん坊は、皺だらけの顔、80歳の老人として生を受けていたのです。施設経営者の妻クイニーという心優しい女性に、神様からの授かり物として愛情深く育てられることとなります。命拾いをしたものの、この赤ん坊は老衰寸前のような状態であり、決して長く生きていけないだろうと医者に告げられるのですが、奇跡的に施設の中で育ってゆきます。クイニーは赤ん坊にベンジャミンと名づけます。

ベンジャミンは車椅子の生活から、杖を使って歩けるようになり、年を追うごとに若い容姿になってゆきます。その頃、彼はデイジーという6歳の可愛い女の子に出逢います。ベンジャミンは彼女に、自分は老人ではなく、本当は子供なのだと告げるのです。
やがて月日は流れベンジャミン17歳、身体も段々と若々しくたくましくなってゆき、施設を出て広い世界を知りたいと、船員になることを決意します。
一方、デイジーはバレエ学校に入学してバレエダンサーへの夢を追いかけ、共に励まし合います。

数年が過ぎ、二人はそれぞれの紆余曲折を経て、ついに思いを交わし合い結婚することになります。奇しくもちょうど二人の年齢が同じになる交差点でもあったのですが、この頃の最も幸せな美しい時代のベンジャミンをブラッド・ピットが演じています。爽やかな好青年ぶりで、ベンジャミン、おめでとう!と思わず祝福したくなりました。
娘・キャロラインも誕生するのですが、彼は、年を追うごとに若くなっていく自分がいつまで父親でいられるのかという不安に次第にさいなまれることになります。デイジーより既に若くなっている自分が、そのうち娘より子供になってしまう、そんな思いから彼は何も告げずに姿を消します。
更に色々展開があり、月日が過ぎて老女になったデイジーに、身元不明の少年がデイジーの住所を持っていたと電話が入ります。
彼女は男の子を引き取り育て、ついには彼は赤ん坊になって、彼女の腕の中で死を迎えるのでした。
デイジーをじっと見つめ、そして静かに目を閉じ永遠の眠りにつく小さな彼と、彼を胸に抱きながら、そっと呟くデイジーの次のような言葉でこの映画は結ばれます。
時と共に彼はすべてを忘れていった 自分の事を忘れ、歩き方や話し方や食べ方までも 彼は最後に私の事を思い出した それからゆっくり目を閉じた
眠るように
赤ん坊に戻って死ぬという事は、人間の最も自然な最期なのかもしれないと思いました。
何の力もない赤ん坊として世に生を享け、やがて、全く無力の状態で命を全うしてゆく・・・それが人の自然な姿そのものなのかもしれません。
若返ってゆくことが必ずしも幸せなわけではなく、限りある時間を共に生きる人とともに歩み続けて、共に人生を終えてゆくことの意味を改めて考えます。
そして、この映画で心がほっとしたのは、まずはクイニーという黒人の女性、ベンジャミンの育ての母の限りない慈愛と、やがて伴侶となる恋人デイジーの純粋さと、施設の老人たちの屈託のない明るさでした。
ベンジャミンを奇異な目で見ることもなく、「老人として生まれてくる、そんな不思議なことだって人生には起こりうる、神様はそれ全てに平等に祝福を与えている」とごく自然に考えて、家族として、仲間として、恋人として当たり前に温かく受け入れるその優しさです。
老いるという事
最近友人と話すと、ご両親とか、近い身内の方とかのご病気の話が頻繁に出てくるようになりました。特に認知機能の衰えへの対応にそれぞれが苦慮していて、その介護の方法や、対応についてなど情報交換なども交わされます。
現在、私の身近にも差し迫った問題が色々生じ始めています。
頭ははっきりしているのに、身体だけが衰え、それを直視せざる得なくなった時の当事者の気持ちの持ち方は千差万別です。あるがままを受け入れ、嘆かず、その状況の中での時間を愉しもうとしている方を見ると救われる気がしますが、でも実際自分の事となるとなかなか難しくて、とても強い精神力が必要とされるのでしょう。
そんなことを思うにつけ、先ほどのベンジャミンの映画のラストがことさらに感慨深く感じられます。
自分のことを忘れ、言葉を忘れ、歩くこともできなくなり、食べ物も固形の物から液体の物にと・・・そしてデイジーの腕の中で・・・


