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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

「東福寺展」に行ってきました

 風が通りにくい京都盆地の中にあって、吹き抜ける風を感じる日はどれくらいあるでしょうか。
そんな中でも、この10月は心地よい爽やかな日々が続いています。
 まさに散策日和ですが、でも、外国人の観光客も急増していて、特に私の住まい近くの錦市場や祇園界隈などは、どこか異国に迷い込んでしまったかのように、外国語ばかりが勢いよく飛び交っています。
 10月22日は時代祭りでした。所用で出かけた時、人込みのすき間から、ちょうど目の前を眩しい秋の日差しを受けたきらびやかな行列が粛然と通り過ぎてゆき、ふっと昔の時間と混ざり合うような感覚に包まれました。
 こういう時、「あなどるなかれ京の都」と痛感します。
京都国立博物館
 さて、10月7日から12月3日まで京都国立博物館で「東福寺展」が開催されています。
 先日、抜けるような秋空の下、光と風を浴びながら鼻歌気分で出かけてみました。
東福寺展 これに先駆け7月に上野の東京国立博物館で既に開催されていて、東京の友人から「地元にいるのにこの展覧会に行かないなんてありえない」という強いお薦めの電話を受けたばかりでした。

 京都国立博物館のWEBにはこんな文章と写真が載っています。
羅漢図 新緑や紅葉の名所として知られる東福寺は、京都を代表する禅寺の一つです。中世以来の巨大な建造物の数々は圧倒的なスケールを誇り、「東福寺の伽藍面」の通称で知られています。
 東福寺の寺宝をまとめて紹介する初の機会となる本展では、伝説の絵仏師・明兆による記念碑的大作「五百羅漢図」全幅を修理後初公開するとともに、巨大伽藍にふさわしい特大サイズの仏像や書画類も一堂に展観いたします。草創以来の東福寺の歴史を辿りつつ、大陸との交流を通して花開いた禅宗文化の全容を幅広く紹介し、東福寺の日本文化における意義とその魅力を余すところなくご覧いただきます。


 鮮やかな復元、「画聖」と崇められた絵仏師・明兆による五百羅漢図のうち、現存する全四十七幅の展示、一幅に十人の羅漢(釈迦の弟子)が描かれ、合わせて五百人の羅漢が、それぞれの絵図の中で存分に神通力を発揮する様が、生き生きと描かれていて、絵物語を見るよう。
 アニメのように絵の中から声が聞こえてきそうな臨場感を感じました。これだけのものを復元するのはどんなにか大変だったことでしょう。修復に14年の歳月を要したというのも頷けます。
 五百羅漢図は4期に分けて入れ替え、展示されるのだそうです。11月7日からは特別展の後期という事で、他の展示物も入れ替わるそうですので、もう一回行きたいと思っているのですが。
羅漢図1 それにしても、「羅漢図」は釈迦の高弟たちを讃えるための荘厳な仏教絵図であるとこれまで理解していたのですが、羅漢たちがお茶会にワイワイと集まってくる様子とか、それぞれが様々な表情を見せて書物と格闘している勉強会とか、まるでマジックショーのように仏経典に光を放って皆で拍手喝采しているところや、はたまた、招かれて竜宮城へ皆で遊びに行くところなど、・・・「羅漢図」の横に添えられてある吹き出し付きのウエットに富んだ四コマ漫画と合わせて思わず笑ってしまいました。
 飛躍し過ぎかもしれませんが、日本の古代から伝わる物語、日本書記や古事記の中の神々の姿は人間的で自由に生き生きと、時にはユーモラスでもあることと重なって感じられました。そう言えばギリシャ神話も同様に、神々は実に人間くさく、喜怒哀楽に任せて楽し気にふるまっていますし、・・・羅漢は神様ではなく釈迦の弟子、人間ではありますが、何だか似ているようにも思われてきます。
 「神々の笑い」、苦悩に沈むことと対極にあるような突き抜けた悟りの世界なのかもしれません。

 館内には「五百羅漢図」を中心に、東福寺に所蔵されてきた貴重な書画・工芸品・仏像など、博物館を埋め尽くすほど沢山の展示物が公開されていました。
 私としては特に、縦横3mにもなる「白衣観音図」(重文指定)の神秘的な慈愛の表情と、同じく2mを超える「寒山拾得図」、鴎外の小説「寒山拾得」が思い出されて、二人の特異な人物像がそのまま心に迫ってくるようでとても興味深かったです。
 そして、三門に安置されている「二天王立像」(重文指定)の近づいて見た時の雄姿、・・・普段、東福寺に行って三門の暗がりを覗き込むときにも、ぼんやりと浮き上がる迫力を感じますが、でも目の前にその巨大な全体像と勇壮な表情の細部を鑑賞できるのは、やはりこのような特別展ならではのものでしょう。
大仏の手
 ご紹介したいものはたくさんあるのですが、大仏様の左手の展示も圧巻でした。
創建当初の大仏が元応元年(1319)に焼失したあと再興された旧本尊(釈迦如来坐像)もまた、明治14年(1881)の火災で焼失し、辛くもこの左手と光背の化仏、そして蓮弁一枚だけが救出されたのだそうです。手だけでも約2.2mあり、それを目の前で見ることができ圧倒されました。

 またまた飛躍しますが、以前読んで心に深く残っている文章の一節を思い出しました。
 詩人清岡卓行氏のエッセイ『ミロのヴィーナス』という文章。冒頭をご紹介してみます。

 ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだ と、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という制作者のあずかり知らぬ 何ものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。
(中略)
 失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕 が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

 非常に美学的な捉え方だと思いますが、清岡氏は、「手というものは世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。」とも述べていて、手が欠けてしまったからこそ、手の持つ無限の可能性が美しく感じられるのだというのです。
この大仏の手、手だけが語る世界は・・・・・と考えるととても興味深く、清岡氏だったらこの唯一残された左手をどのように表現するのでしょうね。

 そして、この大仏様が座していたという台座の蓮の花の花びらが、この手と隣り合わせて展示されていました。
この蓮弁は東福寺塔頭の即宗院に所蔵されています。
 蓮弁   大仏と私
 写真コーナーワッペン
 今回の展覧会で写真を撮ることが許されている唯一のコーナーですので、傍の方にお願いして撮影して頂きました。

京都国立博物館はゆったりとしてとても心地よい空間ですし、展示品は悠久の歴史の浪漫を感じる貴重な品々ばかりですので、是非お薦めいたします。
 人の少ない、開館時間直後の9時に入館するのがベストです。
   写真コーナー

朗読 et chanson 「したたりひとしずく」 準備が進んでいます
  12月2日(日) 14:00~ 京都岡崎  ナムホール  
  12月16日(日) 14:00~ 湘南鵠沼  レスプリ・フランセ   

 あとひと月余りと迫って参りました。
 そろそろお席が埋まって参りましたので、ご予定下さっている皆様はどうぞお早めにお申し込み下さい。
 準備も佳境に入っています。より良いものをお届けしたく様々もがきながら、でもそういう時間を楽しんでいます。是非今回もお越しくださいますように。

                                          

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