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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

『ウイスキーをヴィシーに』

訳詞への思い 自宅で自粛のGW
 ウイルスが収束して、自由に動けるようになったなら、出かけたいと思う所がたくさん出てきました。
 京都市街から比較的近い大山崎の、サントリー山崎蒸留所も、その一つ。

山崎蒸留所
 

サントリーウイスキーのCMソング、「ウイスキーはお好きでしょ」

   ウイスキーはお好きでしょ
   もう少し 話しましょ


 という歌い出しで、よく知られている曲ですが、石川さゆりさんが歌って大ヒットした後、様々な歌手によってカバーされています。

 シャンソンの中でもお酒を歌った曲は色々あるのですが、今日は、「訳詞への思い」、『ウイスキーをヴィシーに』を取り上げてみようかと思います。
 

     『ウイスキーをヴィシーに』

                           訳詞への思い<32>

   『Du whisky au vichy』
 作詞Claude Lemesle(クロード・ルメル)、作曲Alain Goraguer(アラン・ゴラゲール)、1977年にSerge Reggiani(セルジュ・レジアニ)によって歌われた曲である。
セルジュ・レジアーニ
 原題の『Du whisky au vichy』は「ウイスキーからヴィシー水へ」の意味だが、この曲は既に、『ウイスキーが水に』の邦題がつけられ、高野圭吾氏の訳詞で広く歌われている。

 ただ、『ウイスキーが水に』というこのタイトルには、ウイスキーが突然変異で水に変わってしまった、あるいは、いつの間にか氷が溶けて殆ど水になったというようなイメージが伴い、原題の本来の意味からすると、少し離れているという感じがしてしまう。

  De minuit à midi Du whisky au vichy
  (真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで)

 曲中のサビとして何回も繰り返されているこのフレーズだが、「ウィスキーを呑んでいた夜の時間から、やがてヴィシー水に飲み代えた朝へと時間が移り」という意味なのだと思う。

  「ウイスキー」について。
 ウイスキーは、1494年、スコットランドで、“アクアヴィテ”が製造されたのが起源だという。
ウイスキー
 麦芽を原料にした蒸留酒を、ケルト語でウスケ・ボー「生命の水」と呼んだのが、ウイスキーの語源であるとのこと。
 友人曰く、「水割りでもロックでもなく、ゆっくりモルトを傾けるのが通」

 映画にでも出てきそうで、カッコ良いと思うけれど、私自身はアルコールが全くダメなので、その美味しさがわからないのが残念だ。

  「ヴィシー水」について。
 フランスで普通に愛飲されている「ヴィシーセレスタン」という天然微炭酸水を指している。
ヴィシー水
 ペリエとかエビアンのようなお洒落感のあるナチュラルミネラルウォーターで、オーヴェルニュ地方にあるヴィシーの街の産物である。

 「ウイスキー」や「ヴィシー水」は、詩中の印象的な小道具ではあるが、この曲の主眼は、グラスを透して見つめる「夜」そのものであり、やがて明けてくる「朝」の光の眩しさなのだと思う。

 欝々とした心を抱えて生きる自分にとって、夜はつかの間の安らぎの時。
 夜が自分を誘い込み、グラスを傾けさせ、酩酊感へと導く。
 「夜=nuit」は女性名詞なので、「彼女=elle」と言葉が置き変わりながら進んでいくのだが、いつの間にか、語り手にとって、elleはただの代名詞ではなく、特定な「或る女」の暗喩となってゆく。
 「彼女」を語る詩とも、とらえられるのではないだろうか。

   『ウイスキーをヴィシーに』
 まず、原詩の概要は次のようである。

  夜になると、うんざりとした日々の生活は消え去り、
  ネオンの明かりにすべては美しく輝いて見える

  夜は恋人のように私を誘い、酒を飲むことを勧める 
  僕が彼女を欺いても 夜という彼女は、決して僕を欺かない
  ずっと自分と寄り添って、一生 最後までいてくれる
  酒に酔いしれる自分を見ていてくれる
  夜は時には狂気であり 不思議な魔法であり 倦怠でもある

  身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ

  真夜中から正午まで ウイスキーからヴィシー水まで
  夜になるときまで 身を潜める

 「ヴィシー」は、ペットボトルの水をごくごくと飲み干す昼間の世界。
 仕事をこなし、社会人としての役割を営んでいく、その象徴なのだと思う。
 
 そして、彼は、その疲労感や充足感、時には倦怠感、挫折感などを、「ウイスキー」の酔いの中でつかの間、解放させようとしている。
 夜更けるまで呑んで、けれど朝は必ずやってくる。

 「ウイスキー」と「ヴィシー」は、そういう、人が生きる振り子のようなものかもしれない。

 我を忘れて酩酊することを、夜は穏やかに受け入れてくれる。
 いつもそっと傍にいて、優しく癒してくれるそんな女性が、「夜」のイメージに幻影のように重なってくる。

   C´est comme une vierge qui n´a
   Jamais vraiment su se garder
   Et qui retrouve toujours sa
   Virginité
 (身を守ることを全く知らないのに 
  いつでも処女性を取り戻す処女のようだ)


 この部分の訳詞は、解釈がなかなか難しいと思うのだが。

 高野氏は次のように訳されている。

  こうも言えるだろう 夜は娼婦と
  子供の目を持つ娼婦と あまりの純潔
  それゆえ どんなに汚れても 平気な娼婦と


 原語を咀嚼していく際のイメージには自由度があり、そこに、それぞれの独自な世界を創造してゆくのが訳詞なのだと改めて思う。

 このフレーズが含まれている3番の訳詞を、私は次のように訳してみた。

  夜は 狂気と 不思議な魔法の扉に 突然 いざなう 
  何も知らない少女のように 
  身をすくめたまま 立ち尽くす
  何でもわかっている倦怠の中で 
  夜は 新しく生まれ変わる
  眠りに就くまで 朝がやって来るまで
  ウイスキーをヴィシーに代えるまで

  夜が誘う ウイスキーが揺れる
  夜が薫る ウイスキーが揺れる   (松峰綾音 訳詞)


 いつか、グラス片手にこの曲をステージで歌えたらカッコ良いと思うのだが、なにしろ呑めないので、おそらく、ヴィシー水のボトルになるに違いない。


                            Fin

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  
 セルジュ・レジアーニの歌う原曲です。お楽しみください。



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ラパン・アジルの思い出

 久しぶりに散歩に出ました。
寂しい錦市場

 昼間の錦市場、店のシャッターの多くは閉まり、行き交う人もまばらで、別世界の様です。



そして、鴨川べりへ。
 犬を散歩させる人が、マスク姿で、離れて歩いています。
閑散とした鴨川 鴨
 鴨たちは、変わらぬのどかな様子で、眩しい日差しを楽しんでいました。

   距離を置く
 GWが始まろうとしています。
 様々な注意勧告の中、沖縄便の予約は6万人、営業を継続するパチンコ屋に並ぶ列も減ることはなく、連休中に感染者数もまた増大するのではと、嫌な緊張感が走ります。

 医療を初めとして、私たちの日々の生活と安全を守るべく、身を挺して働いて下さっている多くの現場の方々、そしてそれに報いたいと、それぞれの立場で、感謝や応援や協力や、心温まるたくさんの支えも届けられています。

 こういう時こそ、どうあるべきなのか、全体としても個人としてもその姿が真に問われますし、まさに品格を持って踏ん張る正念場なのだと思います。

 でも一方で、これまで恵まれ過ぎてきた生活環境や平和の中で、逆境に耐える心が脆弱になっていることも事実なのでしょう。
 「快」でないことのストレスに耐えられず、自分だけはと逃げ道を探すことも、いたずらに恐れて鬱々と囚われてしまうことも、正しいことではありません。

 自分一人の災難ではないのだから、もう仕方がない。
 覚悟を決めるしかありませんよね。

 先日の読売新聞の「編集手帳」に、「「よそよそしい」、「よそ様」などというときの「よそ」は「余所」と書く」という記事が載っていました。
 「所を余す」は「距離を置く」の意味で、普通は、「よそよそしい」という否定的なニュアンスを感じるのだが、・・・・という書き出しから、昨今の状況へと続いてゆきます。
 筆者は、スーパーのレジや、電車のホームに、自然と距離を置きながら待っている人々の姿を見て、今、「困難に立ち向かおうと大勢の人が呼吸を合わせていることは確かだろう。」と述べています。
 そして「<距離を置く>とは、ひととき、みなが力を合わせ、災難を乗り切る意があった・・・と後の世の辞書に載せよう。」と結んでいます。
 切なる想いが伝わってきて、心に染みました。

 「密接」は、親しさを図る尺度ではありますが、翻ってみると、卑近距離であることに盲目的に寄りかかってきた甘えの構造を、裏面に隠し持っていたのかもしれません。
 「快」に依存しすぎないで、適度な間合いを心に保つという、難しいですが、誰にとっても、そういう、心身に「距離を置く」鍛錬をする時なのかもしれないと思います。

   ラパン・アジルの思い出 
モンマルトルの丘
 前回のブログ記事『巴里野郎』閉店で、モンマルトルにあるシャンソニエ「ラパン・アジル」のことを載せたのですが、ラパン・アジルでの思い出が、懐かしく蘇ってきましたので、少しご紹介してみようかと思います。

 シャンソンの殿堂として、長い歴史を持ち、現在に至っているラパン・アジルですが、これまでに何回か訪れたことがあります。


 オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile)
 1795年に宿屋として設立されたのが最初で、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。 
ラパン・アジル
 1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、何度か取り壊しの危機を免れ、多くの歌手、音楽家を輩出し現在に至っている。
 ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、店そのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった 
 (ウキペディア参照)

 初めて訪れた時だったかと思います。
 21時開店、狭い入り口から中に通されます。
 店内には、赤いランプシェードのかかった薄暗いサロンが広がり、一瞬得体のしれない世界に迷い込んでしまったような心細さに襲われるのですが、赤い光に目が慣れてくると、ここは歳月を経たノスタルジックな別世界なのだと了解されてきます。
ラパン・アジル歌手
 サロンの中央に年季の入った大きなテーブル。
 壁一面には、ラパン・アジルの歴史を語るように、巨匠たちの絵画が無造作に掲げられ、お客さんは四隅を囲む椅子に自由に座ります。
 やがて、小さなグラスに甘いシェリー酒が運ばれて一息ついていると、歌手たちがぞろぞろと登場、中央のテーブルの周りに着席し、突然合唱が始まるのです。
 これが、ラパン・アジルの定番スタイル。

 歌手たち、と言ってもデニムにTシャツ、洗いざらしの仕事着で、女性はアクセサリー一つつけず、化粧もしていない
 あまりにも普通で、着飾ってライトに照らされる、日本のシャンソニエのイメージとは全く違います。
ラパン・アジルピアニスト
 いつものピアノ弾きのお爺さんが、撫でるように柔らかく奏で始めると、ライブの始まりです。
 マイクもなく、一人が歌い終わると、一人が立ちあがり歌う
 友人の家で呑むうちに、じゃあ歌でも、という雰囲気です。

 この日のお客さんは、そのほとんどが年配者で、ご近所の常連のように見えました。観光客も混ざっていたのでしょうが、日本人は他にはいませんでした。

 ピアノ弾きのお爺さんは、この店の責任者だったのかもしれません。
 細やかな気配りがさりげなくて、居心地の良い時間が生まれていました。

 それぞれの歌手が、それぞれの声で、切なく、あるいは朗々と歌い、もはや、上手なのかどうか、よく分からなくなってきます。
 でも、それが、心地よい味わい。

 歌うシャンソンは、完全に懐メロで、100年も前から同じように歌ってきたのではと思われるほど、よく知られた往年の名曲ばかりでした。
 フランス人ならだれでもが口ずさめるのでしょう。
 「さあ、みんなで!」と歌手が促すと、観客も声をそろえて気持ちよさそうに唱和する、日本の歌声喫茶も、こんな感じだったのではないでしょうか?

 知っている曲ばかりでしたので、私も大きな声で歌っていました。
 「日本から来たのだ」と言うと、とても歓迎してくれ、質問攻め、最後には「何か歌って」ということに。

 ジャック・ブレルの『Quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)』の前奏が流れてきました。
 これならフランス語で歌える
 ちょっと勇気を出して、フルコーラス歌ってしまいました。
 ブラボーの声
 ダンディーなピアニストのお爺さんに、強くハグされて、すっかりご機嫌の夜でした。

 このコロナ騒ぎで、ラパン・アジルは今、休業しているのでしょうね。
 あのピアニストのお爺さんはまだお元気なのでしょうか。


 お互いの呼吸と音の響きを感じ合える「密接」が、何でもなかった幸せな感覚が蘇ります。
 何の屈託もなく、肩を寄せ合い、音楽を楽しめる日が、早くまた訪れますように。



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「巴里野郎」閉店

 今日はとても残念なお知らせをしなければなりません。
 京都 四条河原町の老舗シャンソニエ「巴里野郎」が突然閉店することになりました。

 一昨日の夜、虫の知らせだったのでしょうか、何となく気になって巴里野郎のWEBを開いてみたら、お店閉店のお知らせが目に飛び込んできました。
 記事がUPされたのは、5分前の事、もしかしたら、WEBで知ったのは私が一番早かったのかもしれません。
 
   2013年の閉店から
 思えば、2013年の2月に「巴里野郎」の創設者、初代オーナーの宮本宰完氏から4月一杯で閉店のお知らせを受けたのが最初でした。

 シャンソンの殿堂ともいうべき老舗名門シャンソニエ『銀巴里』も閉店となり、次々とシャンソニエの灯が消えてゆく時代の流れの中でのことでした。
 
 巴里野郎とご縁ができたのは、その前年だったかと思います。
 その頃はもう宮本オーナーはお身体を崩されて、ご自宅で療養しておいでの頃でしたが、閉店のお知らせに強い喪失感を感じたことを思い出します。
パリ野郎で
 関西のシャンソンの草分けであった名店の終焉を惜しむ声、存続を願う声も、様々なところで湧き上がっていました。

 閉店前の1か月間は、巴里野郎30周年を兼ねた記念月間として、様々な方が別れを惜しんで歌われましたが、私もその中でコンサートを持たせていただきました。

 宮本オーナーの武勇伝はそれまでにも色々なところで耳にしていました。
 30年前に本場のシャンソニエを訪れた時の感動から、日本にも本格的なシャンソニエをという志のもと、ご自身の生年の1953年にレオ・フェレによって作られた曲『パリ・カナイユ(巴里野郎)』にちなんで『巴里野郎』をオープンさせたのだと伺っています。

 2013年4月末日に閉店したのですが、どうしてもこの灯を受け継いでいきたいと願う関係者の思いの中で、同年5月に、急遽、現オーナーの藤本氏がそのまま店を引き継ぐこととなって、紆余曲折を経て、その一年後、ピアニスト坂下文野さんに経営上の責任をバトンタッチされたという経緯があったのです。
 (宮本氏がご病気でお亡くなりになられたのもちょうどこの時期でした)

 それから、6年間、坂下さんが、全力をかけて、巴里野郎を大切に守り支えていらした日々を傍らでつぶさに拝見していました。

 私は奇しくも不思議なご縁の中で、巴里野郎の二度の閉店を身近に見ることになったわけです。

 坂下さんが、コロナウイルスの脅威の中で、どれだけ悩み、苦渋の選択をなさったのかと思うと言葉もありません。

 坂下さんの6年は、私にとっても、彼女と、巴里野郎と、共にあった6年でした。
 初代宮本オーナーの想いが現在まで引き継がれたように、ウイルス感染が収束したのち、また再び、どのような形でか、巴里野郎の魂が復活しますように。
 皆が肩を寄せ合いながら、共にシャンソンを心から楽しめる日が訪れることを今はただ願うばかりです。
巴里野郎のステージの立ち位置
 
 写真は、7年前に当時の宮本オーナーが写メで私に送ってくださった写真です。

 巴里野郎のステージの立ち位置なのですが、多くの歌手たちがここで歌って擦り切れてしまった床。

 「一番ライトが綺麗にあたる場所です これからのために・・・」との言葉が添えられてありました。

   閉店のご挨拶
 坂下さん、これまで6年間 本当にありがとうございました。
 そして共有させて頂いたたくさんの時間に 心から感謝いたします。
 しばし 心身を休めて力を蓄え 次なる飛躍に共に向かっていきましょう。
 
 巴里野郎のWEBに掲載された坂下さんの文章をそのままここに載せたいと思います。

 みなさま、お変わりございませんか。
 いつも、巴里野郎を支えてくださり、ありがとうございます。
パリ野郎入り口

 この春のコロナウィルスの蔓延、暖かくなったら落ち着くかと思っていましたが、四月に入っても状況はますますひどくなり、先が見えない状況です。

 どんな形でもお店を開けたい。三月まではそう思っていました。
 でも、それはお客様を、出演者を、スタッフを危険にさらしてしまう。

 いつになったら安全にお客様をお迎えできるのか。
 出演者の皆様に、安心してお声かけできるのか。
 堂々と公演の告知をすることができるのか。

 答えを探そうと、日々あふれるニュース、
 コロナウィルスとの戦いに関する さまざまな情報の中で 悩んでまいりました。

 その間にも 受け取る寂しい連絡、数々の貸切のご予約のキャンセル。
 この春はもちろん、秋10月のご予約さえ、キャンセルが出てしまいました。

 しかし、悩んでいる間も営業できずともお家賃、JASRAC、その他いろんなお支払いがあり、、大家さんとも相談の結果、今月末で巴里野郎の営業に終止符をうつこととなりました。

 今まで6年間、多大なお力添えをいただいた皆々様へ心より御礼申し上げます。

 関西にも緊急事態宣言の出ていることをふまえ、お別れのライブや集まりができないことをお許しください。

   坂下文野





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『月光微韻』コンサート延期致します

   延期のお知らせ
 様々な準備を重ねてきました『月光微韻』コンサートですが、日一日と事態が深刻化する中、6月5日の京都、7月5日の横浜、それぞれの公演の開催を延期することに致しました。
 開催日程については、状況を見ながら現在調整中です。
 コンサートホール関係の皆様もこの混乱の中で、色々苦慮しておられることがわかります。
 決まりましたら、改めてお知らせ致しますので、どうぞお楽しみにお待ちください。
 すべてが収束して、伸びやかに音楽を楽しめる平和な日常が一日も早く戻ってきますように。
 「無事乗り越えられて良かった!」と皆で笑い合いながら集える時が待ち遠しいです。どうぞくれぐれもご自愛なさってお過ごし下さい。

 ウイルス感染が発症した当初には、まさか誰もこんな大変な事態になるとは予測していませんでしたね。
 或る歌手の方などは、2月初めから既に二回、公演を延期して、ついに中止の決断をしたとのこと、誰にとってもこれから先の展開は全く見えない状況です。

 ライヴコンサートもさりながら、あらゆる生活の場において思いもよらぬ障害が次々と起こっています。

 桜1
 前回の記事『世界の片隅に』で、東日本大震災について触れましたが、未曽有の災害で壊滅的な被災の跡を目の当たりにしたあの時の衝撃と、じわじわと忍び寄ってくる掴みどころのない病原菌の気味悪さと、それぞれ異なった脅威と言えるでしょう。
 今回のウイルスの恐怖は、相手の正体が見えず、救いをどこからも望めず、世界中が収束の見えない病に侵されてゆく恐怖であるのだと思います。

 私たちは私たちの範疇で、最善を尽くすしかありませんし、まるで戦時下であるかのように、勝つまではひたすら我慢という忍耐力を試されているときとも言えるでしょう。それぞれがどれだけ強い心持ちで知恵を絞り、そして,より良く乗り越えていくのか、自分自身の根本をじっくりと見つめ直す必要があるのだと思っています。

   ちょっと良い話 二つ
 昨日、どうしても必要な用事があり地下鉄に乗った時の事。
 いつもより人がまばらな車内でしたが、私の向かい側の席に三人の若い男性が乗車しました。
 皆マスクをしておらず、行儀悪くものを食べながら大きな声で笑い興じていました。
 このご時世に!
 不快で、私は彼らから離れて席を移動し、車両の一番端に座り替えました。
 言葉使いも風体も怪しげだったので、注意することは憚られたのです。

 そうしているうちに次の駅に着いた時、また別の乗客が私の側に乗り込んできました。
 中年の女性が一人、初老の男性が一人。
 この二人は向かい合って座ったのですが、女性はだらんとして疲れた様子のあまり身だしなみにも気を使っていない感じの方でした。
 男性は立ち上がり、この女性の傍に行って話しかけました。

 「マスク、今は手に入れるの大変ですよね。良かったらこれ差し上げますよ。
 僕はありがたいことに少し余分に手に入ったのでいつも2~3枚持っているんです。
 困ったときはお互い様だから使ってください。」

 「ど、どうも・・・・どうも・・・ありがとう。」
 そんな返事しかできず、女性はびっくりした様子でおずおずと受け取り、手渡された個包装の新品マスクをつけました。
 それから、二つ目の駅で彼女は降り、降り際、今度はしっかりとした声で「本当にありがとうございます」と男性に礼を言いました。
 「いいえ、どういたしまして。」と優しい笑顔で男性は軽く会釈。

 ただむっとして席を変わるしかできなかった私とは全然違う・・・。
 普通に、電車の片隅の席に、こういう人がいる。
 心が熱くなった時でした。
              
   <もう一つのお話>
 朝のラジオで聴いたお話。
 休校で家で過ごしている小学生とその母親にインタビューする番組でした。
 初めに母親に、「今は家族が家に居て何かと大変でしょう?」と尋ねるのですが、大体の母親は、<夫も自宅ワーク、子供も家に居るようになって、皆でストレスが溜まってきている>とか、<三回のご飯作りが大変>とかの返事が多いのですが、この日インタビューに答えたお母さんは、「全然大変ではありません」との明るい答えでした。
 そのあと、小学生の男の子に代わって、「長い春休みはどのように過ごしていますか?」の問い。
 これに、「とても楽しいです」「色々な料理をお母さんから教えてもらって作りました。お父さんにもお母さんにもとても美味しいと喜んでもらえて毎日楽しい」とのこと。

 男の子はもともと料理に興味を持っていて、自分で作り方を教えてもらいたいと申し出たのだそうです。そうしたら、めきめきと上達してきて、今ではお菓子作りなどにも挑戦しているのだとか。
 元々、料理は男性の方がセンスがあるといわれていますし、この子はもしかしたら将来素敵なシェフになるかもしれませんね。
 それから、これも家庭教育だからと、洗濯や掃除も一緒に皆で楽しみながら分担し始めたとのこと。その中での和やかな会話が聞こえてくるようで、これまで皆が忙しくしていた家庭を一変させるきっかけにもなったようです。
   桜2
 お母さんが元々明るい性格で、日常に楽しみを見つけられる方だったのでしょうね。
 家庭によって様々なパターンはあるのでしょうけれど、いずれにしてもマイナスをプラスに、逆境をバネにして行けることは、ささやかでも、とても尊い、人だけが持ちうる知恵なのだと、温かい感銘を受けたのでした。

 反省するばかりの私ですが、この二つのお話をご紹介してみました。



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『世界の片隅に』

 カット写真
    『世界の片隅に』
                 訳詞への思い<31>


 コロナウイルスの感染拡大は収まる気配もなく、更に世界的広がりを見せている。
 街には、足早に身を潜めるような気配が充満しているし、マスクやお米、紙類の買い占めや、コロナ感染者への誹謗中傷などのニュースまで流れている。
 <内にも外にも目に見えない敵の脅威を背負って日々暮らす戦時下のよう>と誰かが言ったけれど、この如何ともし難いものの前にすべなく竦む感覚に、東日本大震災の時のあの心持ちを思い出した。

 『世界の片隅に』は東日本大震災の直後、胸に去来する震災への思いから生まれた訳詞であることは、これまで折に触れ話してきたのだが、改めて『訳詞への思い』にまとめてみたいと思う。

   東日本大震災 一通のメール
 今、私のブログを読み返しているのだが、震災の直後、次々と届く情報を頻繁に更新していた。
 その中の2011日3月18日の記事、震災からちょうど一週間後の文章であるが、これを抜粋してご紹介したい。
 『世界の片隅に』を作る直接の契機となったYさんからの詳細なメールを取り上げた記事の一部分が下記のようである。

 <茨城土浦から ~ Yさんのメール ~ > 
       ・・・・・・・
 私は仕事場で皆でお茶休憩をしているところでした。
横揺れがいつもより少し長いな、と感じているうちに、地面の底から何かが出てくるのではないかと思うくらい不穏な音とともに揺れが強くなっていきました。
 驚くというよりも「身の危険」を感じて皆で外に出ると、電線は激しく波打ち、隣のアパートのガラスがガタガタ言い、前のお宅の奥さんも外に出て庭にしゃがみこんでいました。
 地上では明らかに不穏な空気が身体を覆っているのに、空は穏やかできれいな青空だったのを覚えています。
     ・・・・・・・ 
 橋を渡れば我が家です。
 橋は危ないと思いつつ、一刻も早く帰りたかったため、橋を上りました。
 途中ですれ違った若者の「橋はやっぱり揺れるな」と、余震をにおわすような言葉を聞かないふりをしながら自転車で猛スピードで橋を下っていくと、目の前に信じられない光景が広がっていました。
 晴れているはずなのに路面がずっと先まで濡れているのです。
 よくわからないまま、橋を渡り終えて家に近づいていくと更にひどい状況で、ブロック塀が崩れている家や、瓦が飛んでしまった家、窓ガラスの破片が道路に飛び散っている工場等々・・・。

 呆然としたまま我が家に辿り着くとアパートの前のアスファルトや電柱から泥水が噴出し、大量に流れ出ていました。路面が濡れていたのはそのせいでした。
  「液状化現象」、まさにそれが目の前に広がっていたのです。
     ・・・・・・
 
 Yさん。
 どれほど、恐ろしく不安な思いをなさったかが、文面から手に取るように伝わってきました。そしてきっと、今も不自由なことや、困難なことを沢山抱えていらっしゃるのでしょうね。ストレスも過労も沢山たまっていないか心配です。
 私は、子供の頃からのYさんをよく知っていますが、彼女はいつも感受性豊かに、そして、澄んだ眼差しで真直ぐにものを見ることのできる人です。
 賢明な彼女がどんな局面もくじけることなく勇気と優しさを持って乗り切ってゆかれるよう、それを心から祈りたいと思います。
  
 「停電の暗闇の中で、カーテンを開けてみると地上に明りはなくても夜空は結構明るくて、そんな、子どもの頃はわかっていたようなことも忘れていた自分に気づきました。」
  ・・・メールの最後に書いて下さったこのことばが胸に残ります。


 驚天動地の事態の前で、同じ時間を、たくさんの方たちが、色々な状況で色々な思いの中で過ごしていたことを改めて思います。一つ一つは小さな出来事かもしれませんが、でもそれぞれに共感でき、その中に誇らしく感じる大切なものが見える気がしています。

 本当に困難で、一人一人の真価が問われてゆくのはむしろこれからでしょう。
 事態は簡単に収束されそうにありませんし、我慢と苦痛を強いられるこれからの長い時間の中で、どのように私たちは冷静に礼節を保ち続けてゆけるのか、これは難題に違いありません。
 もう既に、風評被害などによって、社会はかなり混乱をきたし始めていますが、だからこそ私たちが立ち返るべき場所を忘れないでいたいと、今強く願います。

 
   映画『この世界の片隅に』
 この曲を歌うとき、『映画とどういう関係があるのか?』『映画のタイトルを真似たのか?』などとよく問われるのだが、このアニメ映画が上演されたのは2016年。私が訳詞をして歌い始めたのは2011年4月からなので、「私の方が元祖・本家です」と釈明することにしている。
 こうの史代氏原作の同名漫画をアニメ映画化した作品で、広島と呉を舞台に、「すず」という一人の女性を主人公として、過酷な戦時下をけなげに生きる彼女と、彼女を巡る様々な人間模様を描き出したヒット作である。
 この世界の片隅で、それぞれの思いを抱きながら、一人一人がかけがえのない命を精一杯生きようとしている、そういう人間同士、共感し合い励まし合うことがどんなに大切か、全編に貫かれている映画のテーマは、私の訳詞『世界の片隅に』への思いにも通じ合うものがあると強く感じる。
 (公式サイトからの予告映像はこちらです。)


   『世界の片隅に』
 さて、訳詞した『世界の片隅に』であるが。
 2002年にケレン・アン(Keren Ann) によって歌われた「au coin du monde=世界の片隅」が原曲。作曲はケレン・アン、作詞は彼女の当時の恋人で音楽プロデューサーのバンジャマン・ビオレイ( Benjamin Biolay)の手による。

   Tombent les nuits à la lueurs de bougies qui fondent
   et que la lumière soit.
   溶けてゆく蝋燭の光に夜が更ける そして光がありますように
   Passent les heures que s'écoulent à jamais les secondes
   et que la lumière soit.
   時が過ぎてゆく 永遠に秒を刻みながら 
   そして 光がありますように


 という冒頭から始まって、恋人たちが共に過ごす夜、温かい愛情を感じながら、お互いの上にささやかでも幸せが注がれますようにとそっと祈る、原曲はそんなロマンチックなラヴソングである。
ケレンアン CDジャケット
 軽快なリズムと旋律に乗せて、ケレン・アンの囁くようなハスキーボイスが飛び切りお洒落なニュー・フレンチポップスの世界を作り上げている。

 美しいメロディーで、2002年の発表時からこの曲に惹かれてはいたのだが、先に述べた大震災の時にこの曲が突然強烈に私の中で思い起こされ、この曲をラヴソングとしてではなく、私自身の思い、祈りを乗せて歌いたいと強く思ったのが訳詞のきっかけである。
ろうそくの火 「蝋燭の光しかない停電の闇の中で、夜空が明るかった」というYさんの文章と、原詩の「溶けてゆく蝋燭の光・・・」が一つに重なったためかもしれない。
 そして、私の『世界の片隅に』は、原詩に忠実な訳詞ではなく、私自身の心象風景を広げていった殆ど作詞に近いものとなった。

 日々、生きてゆく時間の中には 様々な出会い別れ、出来事が通り過ぎてゆく。抗い難いものへの怖れや憤り、悲しさや、嬉しさ。
 今、折に触れてこの曲を歌う中で、思いは更に深く広がっている。

 最後に私の訳詞『世界の片隅に』の全文をご紹介しようと思う。

   世界の片隅に
                 松峰綾音 訳詞
           
   溶けてゆく ロウソクの 名残り火の中に  
   夜が落ちてゆく
   脈打ってる胸の鼓動を 聞いている  
   時が過ぎてゆく
   遠く 近づいてくる  夜が明ける この香り
   一筋の光が ありますように

   立ち尽くすしかできないことって
   突然 起こってくる
   戸惑ってるだけの自分を 眺めてる
   涙がつたう

   遠く 雪解けが見える 世界の この片隅に
   一筋の光がありますように

   この世界に  小さな私と あなたが ここにいる
   それだけで 良い
   つなぎ合う ぬくもりを 今 静かに感じている
   噛みしめてみる

   遠く オーロラが見える 世界の この片隅に
   一筋の幸せが灯りますように
   あなたの上に

                        Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を固く禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  ケレン・アンの歌う原曲です。お楽しみください。




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『さくらんぼの実る頃』

カット写真
 まだ季節が早いですが、今日はシャンソンの往年の名曲『さくらんぼの実る頃』を取り上げてみたいと思います。

   『さくらんぼの実る頃』

                         訳詞への思い<30>

   "Le Temps des Cerises"
 原題は「さくらんぼの頃」の意味。
 日本でも『さくらんぼの実る頃』のタイトルでよく知られた往年のシャンソンの名曲である。
 ジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)作詞(1866年)、アントワーヌ・ルナール(Antoine Renard)作曲(1868年)による。
 現在まで歌い継がれているシャンソンの中で最も古い曲だといわれている。

 さくらんぼにことよせて、若き日の恋の思い出を、甘酸っぱく歌い上げている素朴でノスタルジックな内容だが、この曲について語るときはいつも、パリ・コミューンとの関連がクローズアップされてくる。
 まずは、それも含めた曲の背景を簡単にまとめてみたい。
 
 <パリ・コミューン>
 普仏戦争(1870年〜1871年)で敗れたフランスは、ナポレオン3世の第二帝政が終焉し第三共和政に移行する。
 しかし、プロイセンとの和平交渉に反対し自治政府を宣言した労働者政権のパリ・コミューン(la Commune de Paris 1871)は、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配した。
追悼碑
 これを鎮圧しようとするヴェルサイユ政府軍との激しい市街戦の後、パリを包囲した政府軍によってコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺が行なわれた。
 「血の一週間(la semeine sanglante)」と呼ばれるこの戦闘により、3万人にのぼる戦死者を出してパリコミューンは瓦解し、5月27日ペール・ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後にこの戦いは幕を閉じた。


 この戦いが勃発し、そして無残な結末を迎えた時期が、まさに<さくらんぼの季節>でもあり、この事件後に成立した第三共和政に批判的なパリ市民たちによって、1875年前後から、連盟兵たちへのレクイエムであるかのように、この歌が繰り返し歌われたことから「パリ・コミューンの音楽」として有名になったのだと伝えられている。
ラパン・アジル
蛇足であるが、パリ・コミューンゆかりの地、モンマルトルの丘に今も残る老舗のシャンソニエ「ラパン・アジル」を数年前に訪れた時、偶然だがこの「Le Temps des Cerises」が歌われて、これに唱和する観客に交じって私も声を合わせたことを懐かしく思い出す。
ラパン・アジル2


長い時間の中を生き続けてきた曲であることが再認識される。



    <ルイーズとの出会い>
 さて、作詞者のクレマンは自身も連盟兵として戦ったのだが、その折、野戦病院で負傷兵の手当てをしている一人の女性革命家と出会うことになる。
 彼女ルイーズ・ミシェル(Louise Michel)の甲斐甲斐しく働く姿に大きな感銘を受けて、すでに流布していたこの「Le Temps des Cerises(さくらんぼの頃)」に、改めて「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦、勇敢なる市民ルイーズに」という献辞を付則したのだという。

 そして同時に、これまで3番までだった歌詞に、新たに4番の歌詞を加えて発表した。
 4番には「あの時から、この心には、開いたままの傷がある」のフレーズがあり、この曲が、パリ・コミューンへの追悼として作られたものだと解釈する所以ともなっているのだが、3番までの歌詞がパリ・コミューンの時期の数年前に既に出来上がっていたことを思えば、少しうがち過ぎで、あくまでも失った若き日の恋を思い懐かしむ曲と取るほうが自然であると思われる。

 「血の一週間」をめぐる惨劇を目の当たりにし、この渦中に生きた作詞家クレマンの献辞は、コミューン兵士たちへの挽歌であると同時に、甘く短いさくらんぼの時間・・・・真っ赤に熟し燃え上がるつかの間の恋の情熱と、夢破れた恋の挫折、・・・そしてルイーズという優しく果敢に戦い挑む女性との一瞬の邂逅、そういう全てに手向ける言葉だったと言えるかもしれない。


   「さくらんぼの実る頃」
   <美しい情感>
 フランスではイヴ・モンタン、コラ・ヴォケールを初め何十人という歌手がこぞって歌い継いでいるが、日本でも、シャンソンの代表的名曲として、多くの歌手のレパートリーとなっている。

 訳詞も様々にあるが、よく耳にするのは工藤勉氏の訳詞かと思われる。

  さくらんぼ実る頃は うぐいすが楽しそうに 野に歌うよ
  乙女たちの心乱れて 恋に身を焦がすよ
  さくらんぼ実る頃は 愛の喜びを 皆 歌うよ


 という1番の歌詞から始まり、「愛する人に抱かれて胸震わせても さくらんぼが実り終わると鶯は去り 赤いしずくが胸を染める」という2番へと続く。
 そして最終章の3番で「さくらんぼの実る頃は 年老いた今も 懐かしい。
 あの日のことを心に秘めて、いつもしのんで歌う」と締めくくられている。

 日本語の持つ情感と余韻が美しく、品格のある詩の世界が出現している。

 この工藤氏の訳詞だけではなく、他の訳詞のほとんども<若き日の恋を懐かしく蘇らせながら、過ぎ行く時への感慨をかみしめる>というしみじみとした老境を歌い上げる格調高い曲というイメージが強い。
 旋律の美しさと合わさって、歌い手の側にも年輪を重ねた深みが要求されるのかもしれない。

 1992年には、加藤登紀子氏が、スタジオジブリのアニメ映画『紅の豚』の中でフランス語でしみじみと歌われていて、この曲の知名度を上げた。

   <「血が滴る」と「傷口が開く」について>
 先にパリ・コミューンとの関連について述べたが、このような、いわば隠喩を用いた反戦歌と思われた理由の一つに、ちりばめられている「言葉」そのものがあるのではと私は感じている。

 さくらんぼが実っている描写を記した2番の詩句
  Des pendants d'oreilles
  Cerises d'amour aux robes pareilles
  Tombant sous la feuille en gouttes de sang

  耳飾り
  お揃いのドレスを着た愛のさくらんぼ
  血のしずくが葉陰に滴り落ちている
                (対訳)
 
そして現在まで続く心の痛手を歌った4番の詩句
  J'aimerai toujours le temps des cerises
  C'est de ce temps-là que je garde au coeur
  Une plaie ouverte

  私はずっとさくらんぼの季節を愛し続けるだろう
  開いた傷口を 心の奥に持った季節なのだから
                 (対訳)

さくらんぼ
 二つの実がぶら下がって揺れる<真っ赤な耳飾り>のようなさくらんぼを、二人で夢中で摘みに行く情景は、その赤さゆえにどこかなまめかしくも思われるし、また、さくらんぼが<血のしずくのように滴り落ちている>という表現も、ただ微笑ましいだけではない熱情の激しさのようなものも感じてしまう。

 まして、最終章4番の、嘗ての失恋の痛みを、未だ<ぽっかりと開いた傷口>として感じ続けていること、そういう、まさに触れたら血が噴き出すような恋だったからこそ、今もかけがえない懐かしさと共に、くっきりと刻み付けられているのではないだろうか。

 「さくらんぼの実る頃」のそんな生々しさを伝えたいと思った。
 意訳も入っているが、私の訳詞の締めくくり4番は下記のようになった。

  さくらんぼの実る頃
  癒えることない傷口が 心に開く
  痛みも後悔も幸せも そのまま愛したい
  さくらんぼの実る頃 
  思い出が 胸を打つ

                       Fin

 (注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)

  では、コラ・ヴォケールの歌う原曲をお楽しみください。



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「パパラギにはひまがない」

   「切り開くのはきみたちだ。」
 一昨日、2月28日の読売新聞の「編集手帳」に、『パパラギ』を取り上げた文章が載っていて、とても懐かしく感じました。
 『パパラギ』は1920年、今から100年前に出版されて以来、重版を重ね続けている世界的ベストセラーですので、今や古典と言えるのかもしれません。

 学生の頃の愛読書、本棚から取り出して、今日、久しぶりに再読してみました。

 「編集手帳」の記事は含蓄に富んだ心に残る文章でしたので、まずは、ここに紹介してみます。(要約しながら一部を引用します。)

  今から100年以上前の話である。
  南太平洋の島の一つ、サモアの族長がヨーロッパを旅したあと、島民に向かって演説したという。
 「私たちは小さな丸い時間機械を打ち壊し、日の出から日の入りまで、一人の人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを西洋の人々に教えてやらねばならない」(『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』立風書房)
  時計のことを「小さな丸い時間機械」と呼んでいる。この表現が好きで、たまに本を読み返したりしてきたが、使い切れないほどの時間など多くの現代人には夢物語だろう。
 と、きのうまでは思っていた。

 という書き出しで、この前日の夕方、政府の発表で、3月1日から学校が一斉休校になる見通しが強まったことへの驚きに話が繋がってゆきます。

 「編集手帳」の筆者は更に次のように続けます。

 3月に勉強するはずだったものは?
 生活のリズムが崩れてしまわないか・・・・。
 心配すればキリはないけれど、ここは開き直って、使い切れないほどの時間を人生のために有意義に使ってもらいたい。
 周りの大人の誰も経験したことのない1か月を過ごすことになる。
 切り開くのは、きみたちだ。


 この非常時だからこそ、大人たるもの、慌てないで悠然と、こういうメッセージを子供に向けて発信したいものだと大きく頷いてしまいました。
 
 テレビをつけると、一か月間休校になった時の学業の遅れの深刻な問題、どうやって待機中の子供たちに時間を過ごさせるべきか、遅れを補わせるべきか等々の議論が紛糾していました。
 私も教育現場に長く従事していましたから、この学年末に、突然すべてがストップした時の、現実の混乱や支障については充分理解できます。
 それであっても、これまで経験してこなかった事態に遭遇し戸惑っている子供たち、時間が不意にどっさり降って涌いた子供たちに、「切り開くのはきみたち」との力強い示唆を与えることは何より大切ですし、社会全体の持つ懐の深さのようなものが問われる時でもあると、この記事を読んで思ったのでした。

   「パパラギにはひまがない」
 さて、その『パパラギ』ですが、少しご紹介してみたいと思います。
パパラギ(ドイツ語版)
 
ウィキペディアの説明によると、

 1920年にドイツで画家兼作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが、帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクションである。



 日本では、1981年に『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(著:ツイアビ、訳:岡崎照男)として立風書房から出版されて以後、重版を重ねています。
パパラギ
 「パパラギ」というのは、このサモアの酋長ツイアビの言葉で「白い人」「外国人」という意味、彼が初めて出会った「西洋人」のことを指しています。
 西洋の文明社会は、自然の中でおおらかに暮らすツイアビの目にどう映ったのか、それが曇りない明晰な感性で鋭く捉えられていて、良質の文明論として、現代でも大きな意味を持つ書なのではと思います。

 ショイルマンが直接ツイアビに取材して、その言葉をまとめた書なのか、ウィキペディアの説明のように、すべて著者ショイルマンの手によるフィクションであるのかは、未だはっきりとはしていないようです。
ツイアビ写真

 その真偽はともあれ、酋長ツイアビは言います。

 パパラギはいつも時間のないことに不安を持ち、不平を言い、時間をつかもうと焦り続けている。でも、それが却って、自分で時間を遠ざけることになっている。

 パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。

 だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。
 パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。
 それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。

 おお、愛する兄弟よ。
 私たちはまだ一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに、時を愛してきた。
 時間を折り畳もうとも、分解してばらばらにしようとしたこともない。
 時間が苦しみになったこともなければ、悩みになったこともない。

 私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。
 だれも時間に不満をもったことなどない。

 一刻も早くコロナウイルスの脅威が収束して、普通の生活が戻ってくることを心から願わずにはいられません。
 けれど、「災い転じて・・・」ではありませんが、いつもとは違った不自由な生活の中で、ツイアビ酋長の言うように、これまで私たちを包んできた時間を改めて見つめ直し、より豊かに過ごすことの意味や、日々の幸せを考える契機にしてゆかれればと思っています。

 3月はどんな月になるのでしょう。
 健康に留意してお過ごしくださいね。



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「大人が味わう『蜘蛛の糸』」

   『京都2ショップ冬物&春物フェア』
 花粉症が発症して頭がぼおっとしていたためか、ご案内をしそびれていました。

 こんな間際で申し訳ありません。
 実は2月22日(土)、明日なのですが、西宮の甲子園にある「ギャラリーarai」でライブコンサートを行うことになりました。

 ちょうど二年前の2月に、奈良の「あしびの郷」で、セレクトショップfemme & Uovoが主催する「 20周年記念パーティー」が行われたこと覚えておいででしょうか。このイベントの招待公演として「 松峰綾音訳詞ライブ『雨傘』 」を開催しましたが、あれ以来、femme & Uovoのオーナーやスタッフの皆様とずっと親しくさせていただいていました。

 今回は、甲子園で20日から23日までの4日間、展示会を開催され、その中の明日22日は私のコンサートを特別企画として行いたいというご依頼を受けたのでした。
 では、ということでお引き受けしたのですが、甲子園も初めての場所、会場も初めて伺うので、とても楽しみです。
ファムチラシ


 『京都2ショップ冬物&春物フェア』のチラシはこちらです。
いつもお客様との出会いを大切にして、様々な魅力的な企画を提供なさっているfemme & Uovo、きっと今回も素敵な展示会となるのではと思います。




   『大人が味わう蜘蛛の糸』

   フェア特別企画“French tea time”
特別企画
2/22 (土)15:30~ 松峰綾音 月の庭
   シャンソンと朗読のひととき
   『大人が味わう「蜘蛛の糸」 』

 シャンソンって実はとても新しくってワクワクする大人の音楽
 美しい日本語で現代シャンソンの魅力をお届けします
 芥川龍之介の作品を、今改めて耳と心で味わってみませんか。
 きっと新鮮な発見や感動があるはず!


 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の朗読と数曲のシャンソンを取りあげます。
 そしてトーク。
 せっかくなので、ファッションについてのテーマも。
 大人の女性の「黒のお洒落」を、歌と朗読に絡めながら取り上げてみようかしらと思っています。

 後は、いらして下さる皆様のお顔を見ながら、その場で言葉を交わし合いながら。

 あいにく明日は雨になるという予報ですし、何人くらいの方がいらして下さるのか皆目見当もつきません。
・・・・どんな出会いがあるか、本当に楽しみです。

 お近くの方、よろしかったら是非お立ち寄りになって下さいね。

   一番桜
初桜



 「一番桜です。」と、今朝、届いた東京の友人からの写真。


 新型コロナウイルス感染で緊張を強いられている今年の2月ですが、春は確実に近づいています。






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『月光微韻』 横浜公演

 暖冬のまま春になってゆくかと思いきや、この数日は冷え込みが激しく、今朝は、京都の街中にも、綿雪が激しく降り続いていました。
 12月のコンサートで取り上げた詩『雪の日に』(吉野弘 作)を思い出します。
 
   雪がはげしく ふりつづける
   雪の白さを こらえながら
   欺きやすい 雪の白さ
   誰もが信じる 雪の白さ
   信じられている雪は 切ない


   『月光微韻』
 6月5日(金)に開催する京都文化博物館別館ホールでの「松峰綾音 月の庭 シャンソンと朗読のひとときvol.8」ですが、その後少しずつ準備が進んでいます。

 コンサートタイトルは、『月光微韻』に決めました。

   かそけき月の光  
   ひそやかな余韻 
   ほのかな香りに包まれて
   心に広がる いくつもの情景と物語

 というイメージで・・・・。

 「月の庭」は「月の光の陰影が様々なニュアンスで庭を包み、多様な情景や物語を映し出す」というコンセプト。
 今回のコンサートタイトルは、これを更に深化させたいという思いから命名したのですが、語りと音楽とで幻想的な月明りの世界を描き出し、陶酔感のあるコンサートにできたらと思っています。

 これに合わせて、新たに訳詞した曲も何曲かあり、是非ご披露したいと張り切っているところです。

   横浜 『岩崎博物館 ゲーテ座ホール』開催
 コンサート会場を確保するのはいつも結構苦労します。
 会場によって、申込みの方法は千差万別ですが、人気の高いところは大体、半年前~一年前に既に申し込みをする場合がほとんどです。

 以前コンサートを行った某ホールの場合などは、希望日の一年前の同月1日に会場に赴いて、くじ引きで開催日をゲットするという方法でした。
 希望日が重なっていなければ勿論、ストレートで予約できるのですが、運悪く数グループと希望がバッティングしてしまうときには、まずは、アミダでくじを引く順番を決め、それに従ってくじ引きをするという方法を取っていました。
 それより以前は、まず話し合い、それでも決まらないときはじゃんけんで決めるという方法でしたが、じゃんけんというのは負けた場合の心の痛手がかなり強いためか、アミダ+くじ引きに変わったのでしょうね。
 (ちなみに私は生まれてこの方、あらゆるくじ運は全くなく、じゃんけんにもからっきし弱いので、このくじ引きの日はいつも拷問を待つような悲壮感がありました。)

 さて、今回のゲーテ座ホールですが。
 「6か月前の毎月1日の9時40分から電話申し込み」で早い者勝ちで会場予約をするシステムになっていました。
 私の希望月は7月ですので、2月1日9時40分の電話申し込みで決定だったわけです。
 この日は早朝から目覚めてしまい、電話の前で時間を待つ時間が本当に長く感じられました。
 スタンバイしていて、ぴったりにかけたにも関わらず、タッチの差だったのかお話し中がずっと続き、じゃんけんで負けた日のことやらがフラッシュバックして何とも不安で嫌な感じでした・・・・・などなどありましたが、ようやくつながり、第一希望がまだ空いていると聞いた時には飛び上がるほど嬉しかったです。

 というわけでめでたく決まりました。
 6月5日の京都博物館別館ホールからちょうど一か月後です。

    2020年7月5日(日) 
    13:30 開場 14:00 開演  
    岩崎博物館 山手ゲーテ座ホール 
    (横浜市中区山手町)

    松峰綾音 訳詞 歌 朗読
    三浦高広 ピアノ

   
 みなとの見える丘公園の一角にあるエキゾチックな雰囲気の建物、フランス人建築家サルダ設計によって 1885(明治18)年に建てられた日本最初の西洋式劇場ホールです。
岩崎博物館
 みなとみらい線の元町・中華街駅下車、元町方面の改札を出ると、港の見える丘公園方面の昇りエスカレーターがあります。これに乗って3階まで行くと、アメリカ公園に出ます。そこから約3分。外人墓地の横を散策しながら。
ゲーテ座
 この写真は昨年6月に撮ったもので、公園にもホールの壁面にも薔薇の花が美しく咲き乱れていました。当日もきっと薔薇でいっぱいなのではと楽しみです。
 京都のコンサートとほとんど同一のプログラムで開催するコンサートツアーですが、京都のピアニストは坂下文野さん、横浜は久しぶりの三浦高広氏とピアニストが変わります。
シャンソンと朗読、それぞれのピアノの個性で、世界がどう作られてゆくか、それを体験できることが、私も今から楽しみでなりません。

よろしかったら、皆様も聴き比べツアー、京都も横浜も素敵な散策コースがたくさんあることですし、両方いかがでしょうか?


ご案内のチラシをできるだけ早く作成し、また改めてご紹介しますが、両会場とも、今から受付を開始致します。
 予約申込み・問合わせはいつものようにWEBのコンタクトからお願い致します。



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お正月の雑感

   少年老い易く
 どんど焼きが済むと、子供たちの頭から完全に正月というものはなくなって行った。
 正月はもう過ぎ去った一つの事件であるに過ぎない。
 正月はもう終わってしまったのである。
 この頃から伊豆の天城山麓の村々は本格的な寒さに見舞われた。


 井上靖の自伝的長編小説『しろばんば』の一節ですが、この時期になるといつも鮮明に浮かびがってくる文章です。

 大正初期の伊豆の鄙びた山村で育った耕作少年の成長の物語。
 自然に包まれ、季節の流れに身を置きながら、その中で穏やかに営まれてゆく路傍の人々の質実な生活ぶりと心模様が細やかに描かれています。
井上靖書斎
 どんど焼きの日に、子供たちは皆、一斉に自分の書いた書初めを火にくべるのですが、その時、耕作は同級生あき子の書初めの
「少年老い易く 学成り難し  一寸の光陰 軽んずべからず」とある、大きく力強い文字を見てしまいます。
 彼はその瞬間、今すぐ土蔵へ帰り勉強をしたいような身の引きしまる気持ちにかられます。

 私が『しろばんば』を初めて読んだのは小学校の高学年の頃だったかと記憶しています。このどんど焼きの場面は特に印象的で、耕作のこの思いにとても共感を覚えました。

 「少年老い易く、学成り難し」、今や「少年」は遥か遠く、「学成り難し」も嫌というほど実感しているのですが、でも、お正月を過ぎたちょうど今頃の季節になると、「一寸の光陰軽んずべからず」の言葉が、胸の奥から一種の哀感を持って湧き出してくる気がするのです。

   『しろばんば』の授業
 中学一年の国語の教科書には、以前はどの出版社にも『しろばんば』の一部分が掲載されていました。最近はどうなのでしょうか?急速に教科書事情も変わってきて、定かではありませんが。(大抵は、このどんど焼きの次に登場する「ひよどりのわな」事件の場面が載っていました。)
しろばんば
 私は嘗て、中・高一貫のカトリック系の女子校で教鞭を執っていましたが、中学一年の授業を受け持つときには、この『しろばんば』を、一冊丸ごと3か月近くをかけて精読するという試みを行っていました。
 新潮文庫で528ページもある長編小説を全員に購入してもらい、これを教科書代わりに読み進めるという非常に冒険的な授業だったといえます。

 中学に入ったばかりの若葉が芽吹くようなこの時期に、これまで手に取ったこともない細かい文字の詰まった厚い文庫本を一冊、初めから最後まで授業の中で丁寧に読破するという経験が、読書をすることへの自信と興味、本を読むということがどんなことなのかという実感を体得させる契機になったのではと、その後の生徒たちの成長ぶりから、自負しています。
 その後もずっと中学一年で『しろばんば』一冊という伝統は、学校の中で定着し、幸いユニークな国語教育としての評価も得ることができました。
 蛇足ですが、この時期になると鎌倉、藤沢の書店から『しろばんば』が一斉に消えて、買い難くなるという伝説が生まれ、後には学校で一括購入をすることになりました。

   「年賀状これにて終了」について
 私は普段から手紙を書くのが大好きですし、お正月は「年賀状は必須」という古いタイプであるようです。
 教え子や友人に宛て、驚くほどの枚数になっています。
 一年間の年月を思い、言葉を添える、年賀状は年の瀬の大忙しの一大行事。
 確かに、これがなくなれば随分楽になることには間違いないのですが。

 そんな中で、「これにて年賀状を終えたいと思います」、「これからはメールかラインで」の通知が今年も何枚かありました。
 人それぞれの考え方で、これも大いにありかもしれませんね。
 「虚礼廃止」、もっと便利な通信方法はたくさんあり、手紙をやり取りする習慣も激減している昨今であり、また、終活の一つとして心身ともに「身軽に」ということもよく理解できます。

 私の高齢の両親は病身ですが、年賀状は続けており、とても丹念に文章も書き添えています。
 「友人が亡くなっていき年賀状も減っていく」と寂しそうに呟いていました。
 それでも、来年はどんな図案にしようかと、もう話していて、我が親ながら、あっぱれ!・・・・血筋なので、私もきっと、ずっと続けてゆくことになりそうです・・・・。

   ウズベキスタンからの年賀状
 海外にも友人、知人が何人もいて、年賀状は私にとって、そのやり取りができる楽しいきっかけでもあります。

 教え子の一人Hさんからこんなお便りが届きました。
ウズベキスタン
 「青の都」としてしか知らなかったウズベキスタンが、私にとっても、急に身近で大事な国になりました。
Hさんは聡明で暖かく誠実な方、ウズベキスタンでたくさんの豊かな経験を重ねて健やかにお嬢様たちを育ててゆかれることでしょう。
心からのエールを込めて、彼女からの素敵なお便りを、途中割愛しながらご紹介いたしますね。

実は、私たち家族は、今は主人の仕事の都合でウズベキスタンにて暮らしております。あと2,3年はこちらで生活する予定です。
  
  長女が小学5年の後半から、本格的に中学受験に向けて母娘ともに頑張っていましたが、受験日数日前に、まさかの駐在の話を聞かされました
 家族一緒に海外生活を送る最後のチャンスだと思い、そこから急遽、高校から戻れる一貫校へと受験校を変えて受験。そしてウズベキスタンへ移住という、ドタバタの2019年でした。
 2020年は、少し落ち着いた年になればと、思っております。

 ウズベキスタンは意外なほど住みやすく、治安も日本より良いくらいです。人も優しく、綺麗な世界遺産も沢山あり、文化的にもとても興味深い国です。が、日本人がほとんど居ないのと、世界に二つしかない二重内陸国の一つなので、魚が食べられないのと、英語も全く通じないのが不便です(^^;;
 日本人学校が無いので娘たちはインタースクールです。次女はアルファベットもままならないゼロからの英語生活ですが、私に似て超がつくほど楽天的姉妹なので、長女も次女もそれなりに楽しく学校生活を送っています。

 2020年の始まり、皆様にとって良い一年となりますように。



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