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新しいシャンソンを新しい言葉に乗せて

   シャンソンの訳詞のつれづれに                      ~ 松峰綾音のオフィシャルブログへようこそ ~

変わりゆくものへ 其の二

   コンサートまで後二週間です
 今年は春の訪れが早いですね。
 既に桜も咲き始め、コンサートの日は散華の中かもしれません。
 後二週間、それまでに、プログラム作り・会場やスタッフとの打ち合わせ・演目の仕上げ練習・リハーサル等々、最終準備が色々あり忙しい毎日を過ごしています。
 しかも、なぜかそういうときほど千客万来、急な仕事が入ったり、冠婚葬祭が重なったりと様々な用事が続くもので・・・・おまけに、花粉も黄砂も今年は一段とひどいですし、・・・などとぼやいているのですが、でも本当はそんなに苦痛でもなく、忙しさを結構楽しんでいるみたいです。

   横浜ゲーテ座にて
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 数日前、横浜の会場、山手ゲーテ座ホールに日帰りで打ち合わせに行ってきました。スタッフの皆様とも久しぶりの再会で、コンサートに向けて大盛り上がり、文化祭前夜のようなノリで大いに気合が入りました。気心の知れた仲間たちと気持ちよく協力し合えているという実感が、何より大きな力となります。
 アメリカ山公園を抜け、外人墓地を横に見ながらのゲーテ座までの散策路には、春の花々が一斉に咲いていました。
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 薔薇のアーチの設えも既に整えられていて、よく見ると薔薇の蕾が紅色に膨らみかけていました。
  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
 子規がこの歌を詠んだのは確か四月頃だったかと・・・やはり今年は格段に季節の訪れが早いのでしょう。
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 昨年・一昨年とステージに立った時の思い出と感覚が、ゲーテ座に足を踏み入れた瞬間に蘇ってきました。ホールのスタッフの方々ともいつの間にか懇意になっていて、時の流れの中でいつの間にか様々な絆が積みあげられてゆくのが嬉しいです。
今年もベストを尽くして、更に良いステージにしていきたいと改めて思いました。

 今回の演目を説明していたら、「ゲーテ座なので『山月記』を取り上げたのですか?」とホールのスタッフの方から問われました。
作者の中島敦は、この横浜山手にはとりわけ深い縁があって、当時の住まいも、長く教鞭を執っていた女子校も、このゲーテ座の近隣で、「ホールのすぐ横には彼の文学碑もあるのですよ」とのこと。
中島敦チラシ
 これは全くの偶然で、そういえば横浜にゆかりの文学者だったと改めて思い至ったのでした。そんな話をしていた最中、ふと目をあげたらホールの掲示板に貼ってあった中島敦の写真と目が合いました。
 よく見ると、すぐ近くの神奈川近代文学館のフライヤーでした。
中島 敦展_1
 ちょうど今、「芥川龍之介から中島敦まで」という常設展が開催されていたのです。それで、招かれているような気がして、これは仁義を通さねばと、帰りに神奈川近代文学館にも立ち寄ってきました。
 東海道四谷怪談の公演の前に出演者全員で西巣鴨の妙行寺に災難除けのお参りをするみたいに、あるいは忠臣蔵の舞台の前の泉岳寺詣みたいに、我ながらちょっと面白かったです。

   京都文化博物館ホールにて
 京都に戻って二日後、今度は京都のホールでの打ち合わせがありました。
 こちらもホールの方とはもうすでに旧知のような間柄で、何かとアドバイスをしていただき、打ち合わせも順調で阿吽の呼吸が嬉しいです。
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 横浜もそうでしたが、京都も、昨年までのコロナ感染予防への厳しい規制は殆どなくなっていて、様々な対応がコロナ前に戻ってきているのをひしひしと感じます。
 いよいよ安心して音楽を発信できる時が近づいたと関係者は異口同音で嬉しそうな笑顔。私自身にとっても、コロナと向き合ってきた3年半、本当に大変でしたが、それでもその中で歩みを止めずに活動を継続してきてよかったと感無量です。
 でももちろん、今回も出来うる限りの安全対策は怠らず、細やかに配慮していきますのでご安心くださいね。

   『山月記』と『地獄変』
 『山月記』はコンサートの中で全編を朗読するには長い作品ですので、ところどころ要約を挟みながら短くしてご紹介しようかと思っています。
 それにしても、テーマが重く、胸に迫ってくる内容で、果たして客席の皆様にどのように受け止めて頂けるか、少し迷いましたが、どうしても取り上げたかった作品であり、今回思い切っての挑戦です。
 主人公の李徴は、詩人としての自負心と、名声を得たいとの野心にとらわれ過ぎたために生活を破綻し、ついには心を病んで、身は虎に変えられてしまいます。
 これはかなり微妙で紙一重の話で、何かを目指そうとするとき、特に創造することに関わる場合はより強く、そういうある種の執着や自尊心は必要なのかもしれず。そこに競争心も湧いてくるでしょうし、当然のように葛藤も生まれるでしょう。そういう意味では、誰の中にも虎が住みついてしまう可能性は否めないのではないでしょうか。
 一方で、人としての謙虚さとか思いやりとか無我無欲の境地とか、品格の高さとの折り合いが求められるのでしょう。全てにおいて、真に中庸であることが大切なのではと思います。

 この感覚は、芥川龍之介の『地獄変』を読んだときと共通のものがある気がしています。完璧な『地獄絵』を描くためにみずからの娘を焼き殺してしまう絵師の悲劇を描いた作品です。

 でもコンサートはこのような重い作品だけではなく、ここからより良いものに向ってゆく美しい世界、明るく力強い世界を取り上げますので、大いに楽しんで頂けたらと思います。

 コンサートのお申し込みはまだ少し余裕がありますので、よろしかったら!
 4月2日京都、4月9日横浜、是非お越しくださいね。




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変わりゆくものへ 其の一

 一月もあっという間に後半、今年も月日の経つのが早そうです。
 今朝起きてみたら外は一面の雪化粧、京都も底冷えの冬との戦いが始まっています。

 コンサート『変わりゆくものへ』の準備を本格的に進めているのですが、このチラシをご覧になった方から既に様々な感想が届いていて、それぞれの受け止め方にとても興味を惹かれます。
 「昭和、平成、令和と過ごしたこれまでを振り返ってみると、まさに時代も自分も大きく変わっていて『変わりゆくもの』を改めて自分の生きてきた道程に思いました」と年配の知人からの言葉。
 私自身もまた「変わりゆくもの」を、何気ない日常や周囲に感じ続ける毎日です。今日はそんな日々の中でふと心が留まったことをいくつか。

   <爛熟の薔薇>
 気がつくと今朝、テーブルに飾った白薔薇がこんなに大きく開いていました。絢爛と咲き切る矜持をことさら誇示しているかのようにも見えて、薔薇は誇り高い花と改めて感じます。
    絢爛のバラ
 ふと年上の友人が昔言った言葉を思い出しました。
 「蕾が膨らんできた頃の薔薇が好きと言う人が多いけど、自分は、満開になり今まさに散ろうとするぎりぎりの薔薇の凄みが美しいと思う」
 彼女自身が、この言葉の似合うエキゾチックで妖艶な魅力のあるマダムでした。果敢にドラマチックな半生を過ごし老齢に達した  その時も、自身の中に生きる情熱と何かに挑む力を失わない、爛熟の美を漂わせている人であったように思います。

 つるんと滑らかで瑞々しい幼児の肌は、人生を経るにしたがって皺が刻まれ、それは心の奥にまで届き・・・人が生きるという事は良くも悪しくもそういうことなのでしょうけれど、精一杯生き切ったその姿そのものが美しい存在感をもって全てを圧倒する、それでこそあっ晴れなのではと・・・飛躍しすぎかもしれませんが、今朝の白薔薇にそんなことを思いました。

   『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
 原題は The Curious Case of Benjamin Button)、2008年のアメリカ映画、1922年に書かれたF.スコット・フィッシュジェラルドの短編小説をもとに製作されています。先日BSで放映されていたのを観て心に残りました。
80歳の状態で誕生し、年を取るごとに若返る運命の元に生まれたベンジャミン・バトンの一生を描いたファンタジー。荒唐無稽な物語なのですが、見ているうちにちょっと不思議な気がしてきました。
ベンジャミン・バトンチラシ
 彼の名は、ベンジャミン・バトン。80歳で生まれ、若返っていった男。20世紀から21世紀にかけて、変わりゆく世界を旅した男。どれだけ心を通わせても、どれほど深く愛しても、出逢った人々と、同じ歳月を共に生きることができない、その運命。―それでも、人生は素晴らしい―
というキャッチコピーです。

 簡単にあらすじを言いますと。

 ニューオリンズの病院で、老女デイジーが最期を迎えようとしているところから映画は始まります。娘に、日記帳を読んで聞かせてくれるように頼みますが、その日記帳はベンジャミン・バトンの手記であり、日記の内容はベンジャミンの誕生の経緯に遡ります。
 第一次世界大戦が終わった日。生まれたばかりの赤ん坊が老人施設の前に捨てられていました。赤ん坊は、皺だらけの顔、80歳の老人として生を受けていたのです。施設経営者の妻クイニーという心優しい女性に、神様からの授かり物として愛情深く育てられることとなります。命拾いをしたものの、この赤ん坊は老衰寸前のような状態であり、決して長く生きていけないだろうと医者に告げられるのですが、奇跡的に施設の中で育ってゆきます。クイニーは赤ん坊にベンジャミンと名づけます。
施設時代 
 ベンジャミンは車椅子の生活から、杖を使って歩けるようになり、年を追うごとに若い容姿になってゆきます。その頃、彼はデイジーという6歳の可愛い女の子に出逢います。ベンジャミンは彼女に、自分は老人ではなく、本当は子供なのだと告げるのです。
 やがて月日は流れベンジャミン17歳、身体も段々と若々しくたくましくなってゆき、施設を出て広い世界を知りたいと、船員になることを決意します。
 一方、デイジーはバレエ学校に入学してバレエダンサーへの夢を追いかけ、共に励まし合います。
恋人時代
 数年が過ぎ、二人はそれぞれの紆余曲折を経て、ついに思いを交わし合い結婚することになります。奇しくもちょうど二人の年齢が同じになる交差点でもあったのですが、この頃の最も幸せな美しい時代のベンジャミンをブラッド・ピットが演じています。爽やかな好青年ぶりで、ベンジャミン、おめでとう!と思わず祝福したくなりました。
 娘・キャロラインも誕生するのですが、彼は、年を追うごとに若くなっていく自分がいつまで父親でいられるのかという不安に次第にさいなまれることになります。デイジーより既に若くなっている自分が、そのうち娘より子供になってしまう、そんな思いから彼は何も告げずに姿を消します。
 更に色々展開があり、月日が過ぎて老女になったデイジーに、身元不明の少年がデイジーの住所を持っていたと電話が入ります。
 彼女は男の子を引き取り育て、ついには彼は赤ん坊になって、彼女の腕の中で死を迎えるのでした。
 デイジーをじっと見つめ、そして静かに目を閉じ永遠の眠りにつく小さな彼と、彼を胸に抱きながら、そっと呟くデイジーの次のような言葉でこの映画は結ばれます。

 時と共に彼はすべてを忘れていった 自分の事を忘れ、歩き方や話し方や食べ方までも 彼は最後に私の事を思い出した それからゆっくり目を閉じた   
 眠るように

 
 赤ん坊に戻って死ぬという事は、人間の最も自然な最期なのかもしれないと思いました。
 何の力もない赤ん坊として世に生を享け、やがて、全く無力の状態で命を全うしてゆく・・・それが人の自然な姿そのものなのかもしれません。
 若返ってゆくことが必ずしも幸せなわけではなく、限りある時間を共に生きる人とともに歩み続けて、共に人生を終えてゆくことの意味を改めて考えます。

 そして、この映画で心がほっとしたのは、まずはクイニーという黒人の女性、ベンジャミンの育ての母の限りない慈愛と、やがて伴侶となる恋人デイジーの純粋さと、施設の老人たちの屈託のない明るさでした。
 ベンジャミンを奇異な目で見ることもなく、「老人として生まれてくる、そんな不思議なことだって人生には起こりうる、神様はそれ全てに平等に祝福を与えている」とごく自然に考えて、家族として、仲間として、恋人として当たり前に温かく受け入れるその優しさです。

   老いるという事
 最近友人と話すと、ご両親とか、近い身内の方とかのご病気の話が頻繁に出てくるようになりました。特に認知機能の衰えへの対応にそれぞれが苦慮していて、その介護の方法や、対応についてなど情報交換なども交わされます。

 現在、私の身近にも差し迫った問題が色々生じ始めています。
 頭ははっきりしているのに、身体だけが衰え、それを直視せざる得なくなった時の当事者の気持ちの持ち方は千差万別です。あるがままを受け入れ、嘆かず、その状況の中での時間を愉しもうとしている方を見ると救われる気がしますが、でも実際自分の事となるとなかなか難しくて、とても強い精神力が必要とされるのでしょう。
 そんなことを思うにつけ、先ほどのベンジャミンの映画のラストがことさらに感慨深く感じられます。

  自分のことを忘れ、言葉を忘れ、歩くこともできなくなり、食べ物も固形の物から液体の物にと・・・そしてデイジーの腕の中で・・・



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2023年、佳き一年となりますように

新年明けましておめでとうございます。
 
 2023元旦
元旦の朝空、紫の雲が立ち、オレンジの光に包み込まれ、心を取られるような気がしてしばらく眺めていました。
 今年も穏やかな元旦の朝を迎えられたことをとても幸せに思います。

 一年の過ぎるのは早いですが、でも留まることなく様々な出来事が日々起こり、少しずつ、あるいはある時は急展開し、人は変わってゆきます。
全ての人に全てのドラマがあって、それぞれが流れ動きながら、同じ時間同じ時代を生きている。
そういう当たり前の事が、実感として感じられるようになって、これが歳を重ねるということなのかしらとしみじみ思うこの頃です。
子供の頃とは時間の経ち方が明らかに違いますし、変わってゆくことの意味も幼い頃はもっとシンプルだった気がします。

月並みな言葉ですが、人は、次の瞬間が保証されているわけではない今この時だけの一期一会の中で生かされている、だからこそ、今を意識し慈しみながら生きることが大切なのでしょう。

この一年、皆様にとって何が待っているのでしょう。
どんな年になるのでしょう。
希望に満ちて歩みを進めていくことのできる年となりますように。
世界の平和と安寧がどうか訪れますように。
そして、そう願うことをいつも忘れないで過ごせますように。

 2023年
「逆境を好転できるしなやかな力を体得したい。まずは心身の健康あってこそ」といういつもの言葉を自分自身への戒めとしたいと思います。

2023年賀状
今年はこんな年賀状です。
 ファッション誌の装幀などで活躍していらっしゃるEllejourさんというイラストレーターの方が昨年夏書いて下さった私のイラストです。
服装などはこの通りなのですが、あまりにもすらりとしたプロポーションに大変身で、何だかとても恐縮してしまいました。そして大いなるプレッシャーも現在感じております!
4月のコンサートのご案内も載せました。
よろしかったら皆様も是非お越しくださいね。もうすでにチケットのお申込み受け付けています。
新春から4月に向けて本格的に準備を進めたいと思います。

皆様、本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。



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『変わりゆくものへ』開催致します

 京都はまさに紅葉の真っ盛り、街の賑わいも昔に戻り始め、私の生活圏は既に多くの観光客で溢れています。
東福寺
 「今年の紅葉は今一つ・・・」と、何人もの方たちから伺いますが、これはこの数年、耳にする言葉。
 やはり微妙に気候変動が進んでいるのでしょうか。それにしても今年は冬の訪れが早いのか、降り積もる落葉が心なしか深く感じられます。
変わりゆくものへチラシ



 さて、来春4月に開催の「月の庭vol.11 『変わりゆくものへ』」のフライヤーが出来上がりましたので、今日はこれに添ってコンサートのご案内をさせて頂こうと思います。





   松峰綾音 月の庭 シャンソンと朗読のひととき vol.11
     『変わりゆくものへ』


   京都:京都文化博物館別館ホール 2023年4月2日(日)
     16:30開場  17:00開演  
   横浜:岩崎博物館 山手ゲーテ座ホール  2023年4月9日(日)
     13:30開場  14:00開演


   『山月記』         中島 敦 作  朗読 
   プレヴェールのシャンソン     S・ゲンズブール
   時と共に             レオ・フェレ
   もしも              J・J・ゴールドマン
   守り続けるために         松峰 綾音   
                               他

   <会場>
 両会場での公演は、昨年1月の『月光微韻』、今年3月の『ひだまりの猫たち』に次いで三回目となります。
皆様に大変好評でしたし、両ホールとも雰囲気のある大好きな場所ですので是非またと思い、日程の確保に全力を注いだのでした。
 全力を注ぐ・・・と言ってもエントリーして、ただ確定の日をじっと待っただけなのですが。
 共に、早くから希望日時を申し込んでも正式に決まるのは半年前で、この間にもっと強力なライバルが出現するとあえ無く撤退しなければならないのです。
 強力な・・・というのは、例えば府や県、あるいは市の公的な催し物が同一の日に入ってきた場合、更にはホールのメンテナンス関係の修繕点検と重なった場合など。実はこれまでの二回のコンサートいずれも、これに泣かされて、何度か変更を強いられてきました。
 ですので、粛々とコンサート準備を進めつつ、日程が決まらない状況を抱え込むのは、かなりなストレスにもなるのです。
 今回も例にもれず、京都の会場は二度日時を変更した上の決定なのでした。
 それに加えてコロナの状況もありますから、ステージ活動は何かと気のもめることも多いです。
 でも、その分、こうして今、日時が決定され、気持ちはかなり高揚して開催に向かっています。
 
 前回ご紹介した会場のご紹介ですが、もう一度改めて。
 京都は旧日本銀行京都支店、辰野金吾設計の重要文化財で、威風堂々とした趣の近代建築「京都文化博物館別館ホール」。
 横浜は「山手ゲーテ座ホール」、みなとの見える丘公園の一角にあるエキゾチックな雰囲気の建物で、フランス人建築家サルダ設計によって1885(明治18)年に建てられた日本最初の西洋式劇場ホールです。
 建物全体が醸し出す長い歴史に包まれた余韻のようなものがとても素敵で、ステージの世界を支えてくれる気がします。

   <テーマ>
  「変わりゆくもの」に対して、まずはできるだけ無色の状態で向き合えたらと思い、今回のフライヤーには、前回の『ひだまりの猫たち』より更に、地のままの写真を載せてしまいました。
変わりゆくものへチラシ裏

 フライヤーの裏面に記したコンサートテーマは次の通りです。

 流されてゆく焦流されてゆく焦燥と喪失、変わろうとする意志と再生
 変身のすべてはeirõneia=「運命のいたずら」の中に委ねられているのかもしれません


 変身・変化(へんげ)は自分自身の意思によって成し遂げられるものではありますが、実はもっと大きな力に委ねられているとも言えるのではないでしょうか。
 そんな意味合いで上記の言葉をフラーヤーに記してみました。

 コロナ・自然災害・戦争、予期せぬ悲惨な出来事で世界が一変してゆく時代、普遍なものを見出し難い状況の前に揺れ、佇んで、「変わりゆくもの」「変わりゆくこと」の意味と対峙してみる、問いかけてみる・・・・そのことを今回のコンサートのメインテーマにしたいと考えました。

 そして、中島敦の『山月記』を今回、朗読したいと思います。
 昭和17年、戦争のさなかに執筆された小説、戦火が迫り風雲急を告げるときそれでも小説家として作品を生み出し続けたいとの想いを捨てきれなかった中島敦が万感の思いを込めて記した遺作でもあります。
 古い中国の怪奇小説に題材を執り換骨奪胎して生み出された作品、詩人として名を成そうとする主人公の、その野心の強さと自己撞着のゆえに、ついには虎に身を変えられてしまった悲劇の物語です。
 この作品を主軸として、今回新たに訳したシャンソンも何曲かご紹介してゆきたいと思っています。

 もう一つお知らせを。
 フライヤーに記しました「守り続けるために」という作品は初めてのオリジナル曲となります。
 改めてまたご紹介致しますが、これも是非お聴き頂きたい曲ですので、お楽しみになさってくださいね。

 
  チケット(自由席¥4000-)の予約・お問い合わせは
  WEB松峰綾音のコンタクトからお願い致します。

 鬼が笑う来年の予定、でもどうぞ皆様今から!
 お誘い合わせの上、是非お越しくださいますように。

     
 

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Amical AYANE関東支部発足会のご報告

 薄手のジャケットなど羽織りながら、秋風の中、街を闊歩する季節。
 暑くもなく寒くもなく。
 耐え難い夏の蒸し暑さ、底冷えが身にこたえる冬の京都ですので、その合間の過ごしやすいこの季節を、今は存分に楽しんで過ごしています。
 京都の紅葉は深紅が際立って美しいのですが、でもまだ木々は、ハロウィンかぼちゃのオレンジ色に溶け合うような、色づき始めの枯葉色です。

 さて今日は、AA会関東支部発足会のご報告を致します。

   Amical AYANE関東支部発足会のご報告
 前々々回の記事宴の名残に7月3日のAmical AYANE発足会のご報告を記しましたが、その時からの懸案であった関東支部の発足が今回皆様のご尽力で叶い、その発足会を神田の学士会館で開催することができました。

 「Amical AYANE(綾音 友の会)」は今から3年前に発足しました。
 ちょうどコロナがはやり始めた頃だったのですが、「音楽活動が大きく制限される時だからこそ、負けずに歩みを止めないで」と、有志の皆様から温かい後押しを頂いて、この素敵な会が誕生したのでした。
 発足式は、コロナの拡大で毎年延期となり、ようやくこの度実現となったのです。

 
 と、この時の記事に記しましたが、これに続いて、関東でも支部を立ち上げて頂くこととなりました。

 「京都の和、東京の洋、Amical AYANE発足会はその絶妙な融合でしたね」
 京都、東京、共に参加して下さった方からの言葉。
学士会館
 静謐な日本庭園に包まれて精進料理に舌鼓を打った東福寺での7月3日に次いで、この度、10月10日の関東支部発足会は、有形文化財にも指定されている近代建築の粋を凝らした学士会館で、本格的なフランス料理を頂きながら優雅なひとときを満喫しました。

 お天気は、もちろん晴れ。
AA会会場
晩餐会のように設えられたこの部屋、コの字型にテーブルを配置して、その真ん中を花道に見立て、ミニコンサートを行いました。
せっかく身近で聴いていただくので、マイクは使わず生の声で。
ミニコンサート
 シャンソンの『枯葉』をテーマにした『プレヴェールのシャンソン』という曲に、この日に間に合うように訳詞を作り、初披露してみたのですが、おなじみの枯葉のメロディもアレンジして、皆様に喜んでいただけたようでとても嬉しかったです。

 やがてお食事タイム、そして、それぞれの皆様の自己紹介。言葉にはその語る方の全てが現れることを、それぞれに惹きつけられるお話を聞きながら改めて実感した気がします。美味しいフレンチとシャンパンとに押されて、いつの間にか旧知の仲のような雰囲気が流れていました。
電報

 ご出席になれなかった会員の方から思わぬサプライズが。
 深紅の薔薇と共に祝電が届き、温かく飄逸味溢れる文面に満場の拍手でした。
 電報って、今は生活から遠くなっていますが、こうして
手に取ると言葉が染みてきました。嬉しい贈り物に感激です。

サイン

  『詞歌抄』をご購入下さった方からサインをとのご要望。字が下手で恥ずかしい・・・緊張しながらも心を込めて。

 発足会が終わり、この後は学士会館のスタッフの方にご案内して頂き会館内ツアーとなりました。
 丁寧に学士会館の歴史を交えつつ、普段は見ることのできない創業当時のままのクラシカルな客室までご案内下さって、非常に興味深い経験となりました。

201号室 この201号室は、かつての人気テレビドラマ『半沢直樹』で銀行の役員会議のシーンに使用された部屋。香川照之演ずるところの大和田常務が土下座をした場面は、当時大いに話題になりましたが、あれからしばらくはこの部屋を見たいと訪れる観光客がひっきりなしで、対応に追われていたとのことです。

東京大学発祥の地

 旧館の正面玄関脇には「東京大学発祥の地」の石碑。


野球発祥の地
 敷地内には、野球のボールを握った手の記念碑もありました。
 「日本野球発祥の地」のモニュメントだそうです。東京大学の前身の東京開成学校のアメリカ人教師が、生徒たちに野球を教えたとのこと。

 そして二次会での団欒と続き、盛会のうちに幕を閉じました。

 本部と支部、二つの発足会を企画し実現して下さいましたたくさんの有志の皆様、会にご参集いただきました皆様、本当に有難うございました。

 このような中で更に人の輪と想いが繋がっていけばそれはとても素敵なことだと思っています。
 皆様のお気持ちにお応えできるよう、更に精進して参ります。

 Amical AYANEへのご入会は随時受け付けています。楽しく自由な会ですし、各種特典も満載しています。ご興味を持って下さる方は松峰までご連絡下さい。

   ・・・・・・・
 最後になりましたが、速報!! 次回のコンサートの日程が決定いたしました。

   2023年4月2日(日)17:00~ 京都文化博物館ホール
   2023年4月9日(日)14:00~ 横浜山手ゲーテ座ホール
        月の庭 VOL.12 『 変わりゆくものへ 』

 詳細は改めてお知らせ致します。どうぞお楽しみに。


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『枯葉』

訳詞への思い(カット写真

   『枯葉』
              訳詞への思い<37>


   『秋の歌』( Chanson d’automne )
  『枯葉』といえば、

  秋の日の ヸオロンの ため息の 
  ひたぶるに 身にしみて うら悲し


で始まる『落葉』という詩がすぐ浮かんでくる。
 フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの詩。
 『秋の歌』( Chanson d’automne)が原題だが、上田敏が、訳詩集『海潮音』のなかで、『落葉』と題して訳している。
 (ヸオロンとは、ヴィオロン、すなわちヴァイオリンのこと。ヸはviの発音)
 人生の黄昏時に佇んでいるかのような侘し気な雰囲気が漂うが、ヴェルレーヌ23歳の時の詩だという。
 
    落葉
                  上田敏 訳詩 『海潮音』より

  秋の日の  ヸオロンの ためいきの
  ひたぶるに 身にしみて うら悲し。

  鐘のおとに 胸ふたぎ
  色かへて  涙ぐむ
  過ぎし日の おもひでや。

  げにわれは うらぶれて
  ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。

 秋風がヴァイオリンのすすり泣きのような細く長い風音を立てる。そして遠くから鐘の音が響いて来る・・・・この詩は切ない秋の音色に包まれている。
 そして、風に舞い落ちる枯葉は、まさに詩人と同化した寂寥感に満ちた心模様なのだと強く印象付けられる。

 シャンソン『枯葉』の制作年は1945年、一方、ヴェルレーヌの『秋の歌』は1862年であるから、この周知の名詩は、シャンソン『枯葉』の誕生にも大いにインスピレーションを与えていたのではないだろうか。

   『枯葉(les feuilles mortes)』というタイトル
 ところで、よく考えてみると、「枯葉」という言葉は、実は日本的情感を多く含んでいると言えるかもしれない。
 枯葉2  シャンソンの名曲『les feuilles mortes』は日本では『枯葉』と訳されているが、この原題のフランス語『les feuilles mortes』をそのまま直訳するなら「死んだ葉」ということになる。
 日本語で「死葉」という言葉もあるが、これは病虫害などで腐った葉のことなので、枯葉とは意味が異なる。
 一方、英語ではこの曲のタイトルは『Autumn Leaves=秋の葉』 と訳されている。
 いずれも『枯葉』という言葉とはニュアンスが違ってくる。

 「枯れる」という日本語は、ただ単に「死ぬ」とは別の、・・・死ぬまでのプロセスや情念・・・盛衰とか喪失とか、再生とかの、命あるものの宿命ともいうべき哲学的なニュアンスを含んでいて、儚く美しい言葉に思われる。
 たとえば木の葉で言うならば、芽吹きから若葉、青葉を経てやがて紅葉し、枯れて散ってゆくというような、生まれてから終焉を迎えるまでの悠久の時の流れが意識されているのではないだろうか。

 『死んだ葉』でも『秋の葉』でもなく、この曲を『枯葉』と名付けたその時から、日本的情緒が私たち日本人の中に喚起され、聴く側各々の心にある原風景・・・例えば各人の恋の痛みであったり・・・を呼び起こす圧倒的な力を持ったと言えばうがちすぎだろうか。
 「枯葉」という言葉に備わっているDNAが、ヴェルレーヌの聴いたヴィオロンのすすり泣きや寺院が奏でる鐘の音に、琵琶の音に乗って流れる祇園精舎の鐘の音を重ね、また鴨長明の「流れゆく水の留まり得ない」ことへの吐息にまで遡らせるのだろう。

   『枯葉(Les feuilles mortes)』
 さて、この『Les feuilles mortes』であるが。
 1945年、ジョゼフ・コズマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞。
 翌1946年の映画「夜の門Les portes de la nuit」の中で発表されたのが最初である。劇中、口笛でメロディーが流れ、、イブ・モンタンが歌詞の一部分を口ずさんでいるが、ほとんど話題にはならなかったようである。
ジュリエットグレコ
 その後1947年ジュリエット・グレコ、1949年コラ・ヴォケールなどによって歌われ、ようやく世に知られるようになった。
コラ・ヴォケール
 一方アメリカでは、『Autumn leaves』と訳され、1950年ビング・クロスビー、続いてナット・キング・コールが取り上げ世界的大ヒット曲となった。

『枯葉』の聴かせどころ、ここだけは誰でも聴き覚えがあるというサビの部分を取り上げてみよう。原詞と対訳は次のようである。

 C'est une chanson qui nous ressemble.
 Toi, tu m'aimais et je t'aimais
 Nous vivions tous les deux ensemble,
 Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.

 それは私たちによく似た歌
 あなた あなたは私を愛し 私はあなたを愛していた
 私たちはいつも二人で共に生きていた
 私を愛するあなた あなたを愛する私

 この部分の岩谷時子氏の訳詞は次のようである。(越路吹雪の歌唱で有名である)

  暮れ行く 秋の日よ
  金色の枯葉散る 
  つかの間 燃えたつ 恋に似た落葉よ


 原詞との比較でよくわかると思うが、原詞にはこの部分に枯葉の描写は描かれていないのだが、岩谷氏のイメージの中で「枯葉」の映像が一幅の絵に作り上げられたと言えるだろう。

 私の訳詞では、原詞をそのまま忠実に、むしろ淡々と描いてみた。

   戻らぬ あの頃
   見つめ合い 笑い合い
    いつまでも 共にいる幸せ 信じてた (松峰 訳詞 )

枯葉1

 「枯葉」という言葉は、曲中一か所だけ(以下の部分)にとどめ、恋が色褪せて行く焦燥感にポイントを置いてみたのだが・・・。

 秋深まりゆく頃、ステージで歌いたいと思っている。

   秋の風に巻かれて 舞い散る 落ち葉
   あなたへの名残りが 枯葉の中 降り積もる
   私の想いだけを 置き去りにしたまま
   二人で口ずさんだ あの歌 繰り返す  (松峰 訳詞)


バーバラ・リーの歌でお聴きください。les feuilles mortes、Autumn leaves、続けて歌っています。)

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。取り上げたいご希望、この歌詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願い致します。)



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ベーコン蜂との遭遇

   木々の光、音
 今年は6月下旬から各地とも異常な猛暑でしたね。
 いっときの京都は、体感温度が40℃を超えるのではと思うほどで、その中で引っ越し荷物の片付けなどしていたら、まさにダウン寸前でした。
 ようやく落ち着き、いつも夏になると訪れる浅間山麓に逃れるようにやってきたのですが、朝晩は羽織り物が必要なほどの涼しさで、今、つかの間の休息を味わっています。
 
 ここでの贅沢は、「何もないこと・何もしないこと」かなって思います。ただ、木々を渡る風の音に耳を澄まし、木漏れ日を浴び。
 ・・・葉擦れの音しかない世界で、静寂が満ちてくるのを感じ、木漏れ日の陰影に心身の再生を感じます。
 もちろん、自然は常に穏やかなわけではなく、叩きつける豪雨だったり、地響きがするような雷鳴だったり、圧倒的な脅威で恫喝されているような気がすることもありますが、それも含めて、人は自然に包まれて生かされていることを実感することはとても大切なことなのでしょう。

 この夏は東京からの友人とこの地で合流しました。
 早朝の散策、語り合い、笑い合い、静けさを満喫し、素朴な地元の食材を堪能し、命の洗濯ってこういうことのように感じています。

   ベーコン蜂との遭遇
 上機嫌で、ゆっくりと朝の食事。
 野菜も果物も卵も牛乳も採りたて新鮮で、何気ないサラダも飛び切り美味しくありがたいなあとしみじみ感じます。
ベランダの食卓にたくさん並べてさあ!と思った時でした。

 耳元で怪しげな羽音がブンブン。
 甘い香りを嗅ぎつけて蜂が一匹テーブルの周りを旋回し始めました。
 あちらが先住者だから静かにやり過ごすことが懸命だと日ごろから有事に備えて覚悟していましたし、蜂はむやみに追い払うと敵対して襲ってくる、何もしないでじっと動かないでいれば決して向かってこないと、聞いていましたので、友人と共に身を固くしてじっと様子を見ていました。
 最初は遠巻きに円を描きながら、ターゲットを物色するように飛び回り、そのうちに段々とその円を狭めて、標的を特定してゆくようでした。
 羽音は耳元で大きくなってきて、わかっていても身をすくめたり、手で追い払いたくなります。
 友人は既に覚悟を決めたらしく、なかなか太っ腹で、「おはよう蜂さん。ゆっくり食事をしたいから気が済んだら早く向こうに行ってね」とかなんとか語りかけていました。
 ヨーグルトや果物やジャムや甘い香りのするものがいっぱいあったのですが、それらには目もくれず、ポテトサラダのお皿の縁に居場所を見つけたようでじっと留まりました。
 それから何度か飛び回ってはお皿に戻り・・・やがてポテトサラダのトッピングに散らしたベーコンの上に降り立ったまま触角を立て、クンクンと匂いを嗅ぎだし、びくとも動こうとはしません。
 ベーコンは細かく刻んで乾煎りしたもので、強いスモークの香りが際立っていました。
 蜂は「これだ!!」というような嬉々とした様子でポテトの中から夢中でベーコンを掘り出そうとしています。
 すぐそばに私たち人間がいるのに、もう全く目に入っていないようで、この作業に全精力を注いでいます。

 ベーコンはポテトの中に食い込んでいて、蜂の体で引き上げるにはなかなか骨が折れるようです。
 口にくわえたまま体を丸め、身体全体を使って持ち上げようと必死で格闘しています。とても人間的な様子に私には見えました。
 まるで、汗をかきながら一人綱引きしているようです。
 何度も何度もあきらめず引き抜こうとし、ようやくスポっとベーコンが離れた時には、その勢いで、蜂はポテトの上に転げました。
 でも満足そうに勝ち誇ったように、口にくわえてテーブルの周りを一周してどこかに飛んでいきました。
 私も友人も怖さを忘れ、なんだか変な感動を覚えた気がします。
 大きく一息ついて、今の光景についてちょっと興奮しながら話し合いました。
 ポテトサラダはどうしようかということになりましたが、蜂がつついたからと言って各段毒があるわけでもないでしょうから、大丈夫なのでは、いう結論となり、何事もなかったように美味しく食べ始めました。

 一件落着と思いきや、ベーコンの油を吸ってパワーアップしたかのように意気揚々とさっきの蜂がまた戻ってきました。
 今度は迷うことなくポテトのお皿に直行し、またベーコンの上に降り立ちました。
 で、さっきと同様な作業を繰り返し・・・。
 巣に食料を運んでいる働きバチなのでしょうか。
 見かけはそんなに大きくなくミツバチのような形状をしているのですが。
 普通の蜂は花の蜜や甘い果物などを好むのではないかと思っていましたので、ベーコンだけを狙うこの蜂は肉食系、だとするとスズメバチなのでしょうか。
 スズメバチだったら、「蜂さ~ん」などと言っている場合でもなく、これは危ないかもと考え始めましたが、でもとりあえずは私も彼女も食事の手を止めて再び微動だにしないで蜂の観察を再開しました。

 コツをつかんだようで、先ほどよりは短時間で上手にベーコンを略奪し、勝ち誇ったようにお腹のあたりに抱え込んでまたぐるぐるとどこかへ飛んでいきました。とんびやサギや鷲が魚を掴んで飛び立つような雄姿です。
 「また蜂に食べられる前に、ベーコンを全部食べてしまおう」との彼女の提案。
 ポテトの奥の方に数枚だけベーコンを残して、私たちは蜂と知恵比べをする態勢に入っていたようです。
 予想通り、今度はすぐに三度目の登場。
 ポテトもベーコンも随分減っていることに不信を持ったかのようにしばらくじっと考え込んでいましたが、やおら実力行使で、ポテトの中に隠されたわずかなベーコンとの大格闘が始まりました。
 今思うとカメラを傍に置いておかなかったことが痛恨の極みです。
 写真か動画でお見せ出来たらどんなにか興味深かったのに・・・。
 こんな時は、次のチャンスに備えてカメラを取りに行こうということには頭が働かず、まず食べてしまおうという気が先にたち、申し訳ありませんでした。

 本当にスズメバチかもしれず、ベーコンのある場所と学習され、仲間を引き連れてやってこられても大変なので、そのあとは、お皿はすべて屋内に撤収し、安全地帯で食事を再開しました。

 これがベーコン蜂の顛末記です。
 ちょうど私の誕生日の8月21日のことでした。
 あの蜂は、この日一日は所在なく時々飛んできていましたがやがて姿を見なくなりました。
 ファーブルの気持ちがほんの少しだけわかったような気がした出来事でした。



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宴の名残

 暑中お見舞い申し上げます。
 連日の猛暑、降ると豪雨だったりと、気象異変が加速していますね。
 コロナ第7波もいよいよ広がりを見せていますし、国際情勢も平和から遠のいてゆくばかり。不快な出来事や事件は頻出して、諸々、心痛む昨今ですが、でも、そんな中でも季節は廻り、眩しい太陽は真夏の華やぎと力を注いでいるかのようです。

 不機嫌な時代の中で、その根源を正確に受け止めつつも、いかに吞み込まれることなく上機嫌を保つかということが、難しいけれど、私たちに示された最大の課題であり、それこそが人としての真の品格・智慧なのだと言えるのかもしれません。

 パソコンの不具合が続いて、悪戦苦闘しているうちに前回の記事から一か月が経ってしまいました。・・・・という言い訳をしながら、今日は、いくつかの宴の後を辿ってみたいと思います。

   Amical AYANE発足会のご報告
 「Amical AYANE(綾音 友の会)」は今から3年前に発足しました。
 ちょうどコロナがはやり始めた頃だったのですが、「音楽活動が大きく制限される時だからこそ、負けずに歩みを止めないで」と、有志の皆様から温かい後押しを頂いて、この素敵な会が誕生したのでした。
 発足式は、コロナの拡大で毎年延期となり、ようやくこの度実現となったのです。
 遡ること、7月3日。
 会場は事務局の置かれている東福寺塔頭。
 前日前々日の京都は40℃に届こうという脅威的な暑さと湿度で、万が一にもどなたかが熱中症になられたりしたらととても心配でした。
 ところが、折からの低気圧と台風の接近で、当日は30℃を切る涼しさへと急変。
 超晴れ女の私としては、これまでのコンサートやイベントで一度も雨が降ったことがないというギネス記録がついに途切れることになりましたが、でも、嬉しい誤算です。
会が始まる頃は雨も小やみとなっていました。
 「晴れ女」から「お天気を自在に操る女」に昇格ですねと、口々に言って頂き、すっかりその気に。
 
 20名の皆様が東福寺塔頭 即宗院にご参集くださいました。
即宗院 丹精された清廉な庭園にまず心を奪われました。木々、花々、苔の緑が雨に洗われて一層瑞々しく輝いていて、別世界に誘われるよう。いらした皆様も席に腰かけるのも忘れて一面の硝子戸の外を見入っていらっしゃいます。森林浴とは、こういう自然がもたらす解放感と酩酊感を言うのでしょう。

 第一部「発会式」が正午にスタートしました。
 事務局長の軽妙で心に響くご挨拶に続いて、Amical AYANEと名付けて下さった恩師から命名の由来などをお話しいただきました。

 そして、私から。
 心からの謝意を皆様に述べた後、ミニコンサートとして一編の朗読とシャンソンを三曲ご披露しました。

 最初の曲は『雨だれ』
 ショパンのピアノ曲ですが、美しいメロディーですので、言葉を付けて歌ってみたいと思い、以前に自分で作詞した曲です。実は全編20分ほどの長い詞になったのですが、時間の関係で、触りの部分だけの短いご披露となりました。
 縁先越しに見える雨に濡れた深緑が、歌の想いと重なりました。
 仏様に見守られる静謐な本堂に響く生の声を、いつもとはまた一味違う一体感・臨場感として受け止めていただけたようでした。

 第二部は離れでの「親睦会」。
 親睦会に先立ってのご挨拶は東京からのお客様。秋に関東支部発足会を開催することも決まっています。関西と関東を結ぶ輪が少しずつ広がってゆくようでとても嬉しかったです。
 鉄鉢料理
 鉄鉢料理と称せられる精進料理をご用意して下さいました。たくさんの大小の漆塗りの鉢に美しく盛り付けられたお料理はとても美味しくて、僧侶が托鉢の時に携えていた食器を形どっているのだそうです。さらに、いただき終わると、まるでロシアのお人形のマトリョーシカのように全部重ねて一鉢に収まるようになっています。
 お食事に舌つづみを打ちながら、ご参加の皆様それぞれの自己紹介。和やかで、いつの間にか同席した者同士が自然に旧知の仲になったような親密感が生まれました。

 20日余りが過ぎましたが、遠い日のような、つい昨日のような、・・・時間は、まばたきのように流れてゆき、だからこそ、その時間に刻まれた「一期一会」はかけがえのない美しいものなのでしょう。
 懐かしい時間を思い返すときの余韻は、まさに「宴の名残」のしっとりとした陶酔と覚醒を伴うものと感じます。
 
 Amical AYANEへのご入会は随時受け付けています。とても温かく自由な会ですし、各種特典も満載しています。ご興味を持って下さる方はAA会事務局(aa.tomonokai@gmail.com)または松峰までご連絡下さい。

   引っ越し完了
 リフォームが完成し、仮住まいをしていた奈良から京都に再び戻ってきました。
 「あまり頑張らないで、涼しい秋になったらゆっくりと一箱ずつ荷ほどきをした方がよいですよ。」「言っても無駄かもしれないけど、体壊したら元も子もないんだから!」と友人達からの断定的かつ有難いアドバイスが沢山。

 本当にその通りなのです。
 でも。
 あまりにも高く家中に積み上げられたパンダの箱。
 埋もれたままでは、探し物三昧の日々になってしまうではないか・・・山があると一気に挑むという生来の悪癖がむらむらと沸き起こってきて。
 それに加えて、整理整頓、片付けは特技の域ですから、結局走り出してしまいました。
 今日でちょうど二週間ですが、寝食を忘れて没頭した結果、最後のパンダもめでたく解包し、今や我ながらスカッと整理された新居になっています。

 楽しい宴。
 施工の業者さんや設計士さんたちと綿密に検討した結果、住み心地よく生まれ変わった家をしみじみと眺めて悦に入っています。
 そしてもう一つの宴の名残は、覚悟の筋肉痛と腰痛の兆しですが、自業自得、黙って耐えるしかありません。

   京都 祇園祭
 京都に戻ってきた日は、ちょうど祇園祭の宵宵宵山。
 三年ぶりの祇園祭再開という事で、これまで以上に街は活気に満ちていて、観光客の数も大変なものでした。
 我が家は、長刀鉾(なぎなたぼこ)の卑近距離にあり、祇園祭フリークにはおそらく垂涎の立地なのでしょうけれど、一歩外に出ると、人込みに巻かれて歩くこともままならないほどなのです。
 夕方になる前に大急ぎで引っ越しの荷下ろしを終了して、外のお囃子や解説の声なども耳を澄ませば聴こえてくるというのに、テレビでの鑑賞。

 今年の祇園祭は後祭りも含めて無事終わりましたが、今年こそはと満を持して準備に臨まれた各方面の皆様にとって、宴の名残はいかばかりでしょうか。

 テレビを見ながら今年特別心に入ってきたのは、山鉾巡行の日の「剛力(ごうりき)さん」と「稚児介添え役さん」の表情でした。
 「剛力さん」は、重い衣装に身を包んだお稚児さんを片方の肩に乗せ抱きかかえ、高い鉾に掛けられた梯子を一段一段上り、途中で一回転して観衆に向かって挨拶し、やがて鉾で迎える介添え役に引き継ぎます。
 「介添え役」は身を乗り出してしめ縄を切る稚児を後ろでしっかりと支えて所作をさりげなく導きます。両者とも、儀式を滞りなく成功させる影の立役者、まさに祭りのクロコさんなのです。
 直接見物している時は、人込みの中ですので、稚児の動きがかろうじて確認できるだけなのですが、テレビの映像ですので、「剛力さん」「介添えさん」の、神経を張り詰めて稚児を全身で守るすべての表情を詳細に観ることができました。
無事役割と儀式を終えたのを見極めた瞬間のお二人それぞれの何とも感慨深く喜びに満ちた眼差しがとても感激的でした。

 この日の宴の名残は、美酒と共に、どんなにか美しいものだったのではと思うのです。


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石刻の歳月 ~当尾と當麻(二)

   當麻(たいま) 二上山と中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説
 前回の記事石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)の続きで、今日は當麻をご紹介しようと思います。
二上山
 當麻(たいま)は万葉の昔から神聖化されてきた二上山(ふたがみやま)の山麓の里です。

中将姫が織り上げたという曼荼羅図を本尊とする當麻寺(推古天皇20年(612)建立)と、同じく中将姫ゆかりの石光寺(白鳳時代の弥勒石仏が発掘されたことでも話題になった)を訪ねてみました。
中将姫
 藤原豊成(藤原不比等の孫)の姫君であると伝えられている中将姫ですが、その存在については今も謎に包まれています。
 その生い立ちや半生が詳細に語り伝えられているというものの、そもそも彼女は本当に実在したのか、これに似た境遇の人物がいて、その女性を中将姫として昇華し伝説化したのか、あるいは信仰の理想の姿として古人が作り上げた全くのフィクションだったのか、諸説入り乱れる中で、実際には存在しなかった「伝説上の姫君」だったのではというのが現在の定説のようです。

 容姿端麗、頭脳明晰で人格も崇高、誰からも敬愛される類まれな女性であったがゆえに継母から疎まれ、命まで脅かされる憂き目にあって、それでも慈愛深く、やがて尼として仏門に入り信仰を極めてゆく、そんな劇的な物語が、能、歌舞伎、浄瑠璃などにも脚色され、中将姫の名は時代を超え人々に広く知られ愛されてきました。日本人の判官びいきの資質が、義経伝説を作り上げたように、悲劇の姫君の出自は、理想の女性像・信仰の形を生み出していったのかもしれません。

 當麻の地では、あたかも実在した人物であるかのように、そこここに現在でも生きていることを感じました。
 「ここが、中将姫様が曼荼羅を織り上げる糸を染め上げた井戸」、「これがその糸を乾かした糸掛けの桜の木」というように・・・懐かしい人を偲ぶように語られていて、いにしえの平城京の風土、時間の向こうに呼び戻されるような一種の陶酔感を覚えた気がします。

 そして當麻の里を穏やかに囲む二上山は、皇位継承の争いに巻き込まれ若くして非業の死を遂げた大津皇子(おおつのみこ)が埋葬された地でもあり、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)がその死を悼んで詠んだ、
 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(『万葉集』巻2-165)
 の歌もよく知られています。

 當麻を訪れたいと思ったのは、実は久しぶりに釋超空(しゃくちょうくう)の小説『死者の書』(1939年)を手に取ったためでした。
 釋超空は民俗学の権威折口信夫(おりくちしのぶ)が、詩歌や小説などを執筆する時のペンネームなのですが、この小説の舞台となるのが當麻なのです。
 當麻の地と、當麻寺に伝わる當麻曼荼羅縁起や中将姫伝説に想を得て、死者である大津皇子が蘇り、姫に曼荼羅図を編ませ、それによっていにしえの魂の再生をみるという内容で、「幻想小説」などとも呼ばれている作品です。

 まずは「當麻寺」へと向かいました。
當麻寺1

 二上山を背にして東西2基の三重塔が立ち並ぶ伽藍配置が現存し、天平・白鳳様式をそのまま残しています。



當麻寺の僧坊「當麻寺 中の坊」に向かいました。
中の坊 誓いの石
 中将姫の一心に仏道を志す強い信念により、不思議にも石に足跡がついたとされる「中将姫誓いの石」

「中将姫さまが當麻曼荼羅に描いたほとけさまを描き写して頂きます」という写仏道場。
 そしてその天井には近現代の画家たちによる150枚にも及ぶ天井画が飾られていました。どれも色彩が優しく、極楽浄土の写し絵のようでした。
天井画 剃髪 
 中将姫剃髪堂も残されています。

 よく整えられた回遊式庭園。
中の坊庭園1 中の坊庭園4 中の坊庭園2

石塀に倒れかけた紅葉の木陰だけが苔むして美しく、静寂な時間が流れています。
塀の苔1 塀の苔2

釋
 帰り際、庭の一隅に釋超空の詠んだ和歌の碑を見つけました。中学生の頃、一年間、彼はこの當麻寺に寄宿していたとのこと、二十年前のその頃を懐かしく想うという歌ですが、『死者の書』の想も、この頃の思い出と繋がって生まれたのかもしれません。

石光寺

そしてすぐ近くの「石光寺(せっこうじ)」にも立ち寄りました。天智天皇の勅願で創建されたと伝わる古寺名刹です。




「糸掛け桜」「染の井」。
丁寧に保存されていて、やはり歴史の中で守り続けてきた中将姫への敬愛が感じられます。
中将姫3 中将姫2

石光寺の石仏の静かな佇まい。
地蔵様1 お地蔵様2

牡丹の庭
 「ぼたん寺」とも言われるほどの一面の牡丹が大木に育っていて、今は若葉が艶やかで見事でした。2000株という牡丹が一斉に花開く頃はどんなに華やかなことでしょう。
 中将姫を包みながら、平城京と牡丹の花々はとてもよく似合うと思いました。

   おまけのお話
 當麻寺 中の坊は、「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」の発祥の地なのだそうです。
陀羅尼助丸というのは奈良で古くから伝わる皆が常備している漢方の胃腸薬。
ちょうど正露丸のような漢方独特の匂いがし、真っ黒ですが、正露丸よりずっと小さいけしの実状の粒で通常1回に30粒服用とありました。
陀羅尼助釜 陀羅尼助
 中の坊には役の行者が秘薬「陀羅尼助」を精製した際、水を清めて用いた井戸「役の行者加持水の井戸」や、薬草を煮詰めた「大釜」も残されていました。

陀羅尼助2   陀羅尼助
 私も祈祷済みの「陀羅尼助丸」を購入し、ちょっと食欲不振だったときに早速服用しました。
 とても効くような気がします。




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石刻の歳月 ~当尾と當麻(一)

 奈良に仮住まいしていつの間にか二か月が経とうとしています。
 あと半月・・・奈良での日々を惜しみつつボチボチまた出かけています。
 奈良というと古墳や陵墓のイメージが私には強いのですが、散策していると石畳、石塀、石仏・・・長い時の流れに磨かれてきた様々な石の情景を至る所で目にし、石の持つ静謐で柔和な表情を感じます。訪れてから少し日は経ってしまいましたが今日はそんな石たちを紹介したいと思います。

   当尾(とうの) ~石仏の笑い
 浄瑠璃寺に近いのに、前回立ち寄れなかった岩船寺を訪れました。
 浄瑠璃寺も岩船寺も、京都府と奈良県の境にある当尾(とうの)と呼ばれる地域にあります。
 平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と称されていた。南都仏教の影響を強く受け、平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域であった。
「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによる。


 岩船寺は、天平元年(729年)に聖武天皇が阿弥陀堂を建立させた時から始まると伝えられていますので、その歴史は半端ではありません。
笑い仏 見過ごしてしまいそうに密やかに道端に点在する摩崖仏を眺めながら石仏の道と呼ばれる岩船寺への参道を辿ります。阿弥陀三尊磨崖仏 (笑い仏)。よくよく眺めると確かに三体とも晴れやかに笑っていて、心和みます。なぜかこの地の石仏たちは微笑んでいるものが多く、この仏たちを昔年の石工はどんな思いで彫り削ったのでしょうか。
遠い昔に呼び戻される心地よさでいつまでも眺めていたい気がしました。

見上げると山門。
山門 山門2
そして、石段を登って山門にたどり着きました。
若葉と花々の向こうに朱塗り鮮やかな三重の塔がくっきりと。
本堂 池
阿字池と呼ばれる美しい池を挟んで本堂が凛として風景に溶け込んでいます。
岩風呂
修行僧が身を清めたという石風呂。

不動明王





 池を巡る小径の片隅に重文指定の石室不動明王立像。
 石に刻まれた不動明王の表情が歳月の中で神々しい優しさを生んでいると感じました。


これも重文の五輪塔。同じく十三重石塔。
  五輪塔   十三塔

庭のところどころに置かれた苔むした灯籠も、石仏同様に過ぎゆく歴史を見つめてきた風格に溢れています。
石塔  石仏2
 石を刻むという行為自体、とても原初的な作業であると思われますし、石を素材にすることで表現できるものもまた限られた素朴なものなのでしょう。 
 でもそれだからこそ伝わってくる力や想いがあり、それはもしかしたら祈りの本質なのではないか、とても唐突なのですが、そんなことを思いました。
 「大和はまほろば」という言葉が胸に入ってきます。

三重塔2 三重塔3 雪の下
岩船寺は「花の寺」、また別名「あじさい寺」と呼ばれており、四季折々様々な花咲き乱れ、あじさいは3000本に及ぶそうです。
私が訪れた時はまだ3分咲きでしたが、今はまさに満開でどんなにか美しい彩りを見せていることでしょう。
紫陽花

 本堂の前の花手水が美しい季節を映し出していました。

  




 

 次に「當麻」へと続きますが、長くなりますので一旦これで終えることとします。追って続きをUP致しますので、お楽しみになさってください。









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